2014年12月18日木曜日

土の中から(その2):美術品と貨幣 from underground 02

そんな古いものがいったい何処から湧いて出るのかといえば、それは土の中からやってきます・・・。
今から数百年前の話です。現在の国境線が確定するまでの北タイは、小さな藩国が群雄割拠する地域で、いってみれば戦国時代が常態化したような場所でした。そうした中でさまざまな王朝が開かれては周囲を制し、制した後には滅亡し、隣国に攻め込み攻め入られてきました。他国に攻め入られれば、その地域の領民は奴隷として使役されますから人々はたまったものではありません。身ひとつで逃げるわけですが、その際、最低限の食料と衣類は持って逃げるにしても、そのほかの財産は捨て置くしかありません。お金は墓場まで持って行けないとはよく言いますが、財産は自分が逃げる際に持って行けない以上、貴重な陶器は(墓場ではないですが)土に埋めます。
貴重な財を得る交易品、文化力、技術力の象徴である窯も閉じられ、これも埋められます。こうして12世紀にこの地に勢力を誇ったクメール朝から、タイ人がはっきりと出現した13世紀スコタイ王朝、そしてラオス、ビルマ(ミャンマー)との抗争に明け暮れた18世紀のチェンマイ王国の時代まで、さまざまな古陶器が土の中から出てきます。そういったわけで、こちらではじゃんじゃん出るわけです。土の中からお宝が。
*(註:文化財保護区域外、もしくはミャンマー領内など原則ルールに則って行われているとのこと)

日本の場合、骨董、アンティークの類の多くはお蔵から出たものです。いわゆる伝世品というやつで、先祖代々大切に所蔵されてきたお宝が、時代と共に価値観も変わり、代変わりを機にその趣味も興味もない息子娘により、名家のお蔵から古美術商の手に渡る。近代以降の話です。
もしくは「私は新しいものが好きだ」という子が、親との趣味嗜好の違いから骨董を売り払い、現代美術のギャラリーかなんかで趣味のものを贖います(それも親のお金ですが)。現代の話です。
しかしそんな名家旧家が今の日本にごろごろあるわけもなく、単に成金が、もとい新興富裕層が事業に失敗して趣味のコレクションを売りに出す。とか、とにかくもろもろの事情を抱えた財の循環によって古美術マーケットに出るケースが多いようです。
古美術品は基本的にその数を補充できませんし、過去に遡って新たに製造もできませんから、絶対数はすでに概ね決まっています。割れたり欠けたりの粗忽者の欠損で、もしくは価値を解さぬ人の手で廃棄されるなどして、じわじわ減ってゆくほうが自然でしょう。資源のない国と一緒です。でもその少ない資源の希少性がまた価値を生んでいます。

そこへいくと東南アジアでは、旧家のお蔵や富裕層のコレクション、そして古美術商といったクローズド・サーキットを超えて、さながら産油国のごとく品物は湧きます。これは文字通りの「掘り出し物」ですが、それがどこから掘り出されるかといえば、土の中から、河の中から、そして海の中から現れます。土の中から遺跡や墳墓が発掘され、河揚がりとして交易の集積所跡がさらわれ、海揚がりとして交易品をぎっしり積んだ難破船が引き揚げられる。発掘だの難破船の財宝だのというとカリブの海賊かエジプトの盗掘団かと、いきなりファンタジーの世界に飛ばされますが、しかしそんなものです。
ちなみに日本語の「掘り出し物」とは、コレクターや古美術商などによるマーケットで、自然と形成されてきた売買相場を、大きく外れて価格が下回ったり、売り手が大幅な値引きに応じて入手した品のことです。なので自身の知識と品物を見る目がよほど売り手を上回らなければ、そうそう出てくるものではありません。だから本当の意味での「掘り出し物」はほとんど存在しません。あったとしたら、それは贋物を疑ったほうがいい。しかしこちらでいう「掘り出し物」は、その言葉どおり土や河や海から掘り出される(揚げられる)ものたちです。

スコタイ、スワンカロークの鉄絵陶や青磁、サンカンペーンの平皿双魚紋、クメールの動物を象った黒褐釉、カロンの大胆な図案の鉄釉皿や椀や 瓶、安南青花や紅安南などなど、細々ではありますが4〜500年以上前の古陶が今も掘り出されマーケットに供給されています。
いやいや、国の文化財保護政策があるでしょう。今タイでは保護研究目的以外の発掘は固く禁じられているはずでは? という声もあるでしょう。たしかにそうです。表向きはそうです。しかしここはマイペンライの国タイです。アジアの人々の営みでそんな杓子定規でキチキチものごとは進みません。では日本はどうでしょう? パチンコという遊戯場では射幸心を煽ってはならんと出玉の換金はきつくご法度、景品はあくまでボールペンやライターの石が一番人気だそうではないですか。これは善悪の問題ではありません。白か黒か、そうした西欧の二元論では全くないです。清濁併せ呑んだ知恵、アジア的な柔軟さです。良いか悪いかは別問題。

土の中から古陶が湧いて出ると言いましたが、世界のアンティーク・マーケットに出ている東南アジア古陶には、かなりの数の贋作が混じっているのもまた事実。それらも含めて本歌贋物、玉石混交、諸々込み込み湧いて出るというのが正確なところでしょうか。国公立の博物館等でも「これはないだろう」という物もたまにガラスケースに入れられて展示されてますし、実際に北タイローカルの小さな郷土博物館(H博物館)では「これはまずいでしょう」(はっきり言えば贋物です)というものもキャプション入りで展示されていました。

こうした贋物も含めて大変興味深いもののひとつに、ミャンマー(旧ビルマ)の白濁釉緑彩陶があります。最近のインテリアショップやスーパーマーケットなどで売られているカラフルなものは別として、骨董の陶器、焼き物というと大抵は藍色の染付をイメージすると思います。もう少し華やかなものとしては赤絵(鉄絵)などもあるかもしれません。いずれにしても焼き物の絵柄の色味はある程度決まっています。
ミャンマーの白濁釉緑彩陶はというと、その名のとおり白地に緑色の顔料で彩られた特異な陶器です。緑色といえば木々の葉に代表される「自然イメージの代表格」ですが、また反面、緑色の肌、緑色の髪、緑色の日の光、などなど非現実的な色味の代表でもあります。
そんなミュータントのような見たことのない緑色の焼き物が、タイとミャンマーの国境付近、メソート、ターク近郊のの山中で発見されたというのは文化考古研究、古陶研究者の間で大きなニュースとなりました。1984年のことです。

ここから発見発掘された緑彩陶器は、動物や神獣、蓮や唐草、幾何学 紋などが伸びやかな筆致で配され、東の中国(世界の陶磁器の中心地です)の影響からは距離を置き、むしろ 西のペルシャ、中近東の影響が窺える自由で大胆な器でした。こんなものが東アジアから発見されたことは今だかつて無く、発見された後に、ミャンマー産だとほぼ特定はされたものの、肝心の窯場は未だ特定できないなど謎も多く、現在もまだ研究はあまり進んでいません。ミャンマーは当時(今も)軍事政権下にあるため、海外の調査隊等が入っての本格的調査発掘ができないでいます。
これらの器は、発見された場所や状況から15世紀〜18世紀に掛けてのものとされましたが、発掘に参加した日本人研究者のその後の調査で、釉薬に錫を含む鉛釉を使用している事が判明。これはイスラム陶器、マヨリカ陶器、デルフト陶器などでは見られますが、東南アジアの陶器ではこれが唯一の例です。釉薬の放射線年代測定でも15〜18世紀と、発掘状況と同様の結果が得られたことで、制作年代はほぼ特定されました。
この最初の調査では約300個の緑彩陶が発掘され、そのうち200個が日本に、残り100個は欧米に渡ったとされています。

その後、この謎のミャンマー緑彩陶は古美術マーケットに流れ、発見のニュースと共に世界のコレクターたちを魅了します。特に日本は当時バブル経済の只中にあり、金に糸目を付けずに買い漁るコレクターも居たことから、マーケットでの価格は高騰します。ミャンマー緑彩の大皿が一枚数百万円で取引されるなど、タイの古美術商に対しては「ミャンマー緑彩の出物があれば値段はいくらでも出すから(日本に)送ってくれ」というオーダーも多かったとか。そうした取引価格の根拠とされたのが、発見の際の300個という希少性。つまり日本に流れた200個と欧米市場に流れた100個という「発行紙幣」ならぬ価値の保証です。

発掘発見、そして検証を日本人研究者が行ったこともあるかも知れませんが、最初に発見された約300個の緑彩陶器の写真図録などを大切に押し戴いて、これのみが正統である。これのみが正真正銘の本歌(真物)であるとして、他を一切認めない80年代ミャンマー緑彩陶原理主義は、日本において結構根強いです。また実際80年代後半〜90年代以降には、かなりの数の質の悪い贋物が作られたこともあり、その主張を強化してきた経緯もあります。
それはそうでしょう。ダイナミックで大胆な筆致といえば聞こえはいいですが、技巧に依らないある種素朴な絵柄の緑の器が数十万、数百万円で飛ぶように売れるとすれば、現地の人にしてみれば「こんなものでいいなら俺も作れるよ」と、誰だって見よう見まねでやるでしょう。別に騙そうとかいうわけではなく、何でこんなものをありがたがって大金を払うのか? 心底理解できないのだと思います。で、買ってくれる人が(主に日本人が)いるのなら幾らでも作りましょう。といって大量の贋物がマーケットに出る。それも結構質の低いものが出る。
なぜならそれはあまりに唐突に、これまで見たことのないもの(緑彩陶器)が目の前に現れたために、それが本物だろうが贋物だろうが、そもそも比較検証できる人がいない。それを扱う古美術商も、それを求めるコレクターも、「ああ。これがあの幻のミャンマー緑彩陶か!」となるのも無理からぬことでしょう。実際、欧米で最も古い歴史を誇る美術品オークションハウス「クリスティーズ」でも、限りなく贋物の疑念を払拭できないミャンマー緑彩の出品を目にします。

とはいえ、これらはあくまで日本や欧米での話。更には古美術マーケットの、更に更にいえばで東南アジア古陶磁という極めて狭い世界での話です。しかし実際に北タイで暮らしてみると、そしてこちらの古美術店や美術館、博物館を回ってみると、あの「80年代ミャンマー緑彩陶原理主義」がいかに現実離れしたある種のファンタジーであるかがわかります。チェンマイのアンティークショップへ行けば、この絵付けは緑の油性マジックで描いたのではないか?というくらい、どう見ても模造品という下手の緑彩を見ることもあります。また日本や欧米で編まれた図録には出てこない、見事な図柄の緑彩大皿や椀を見つけることもあります。模造品はそれなりにリーズナブルな値段ですし、仮に不相応に(強気に)高い場合は値切りにも応じます。しかし見た目も見事な「掘り出し物」は、安易な値段は絶対に付けません。こちらの人は直に掘り出したところを知っていますから確たる自信もあるわけです。贋物もあれば本物もある。

初期に入手したコレクター諸氏の、発行紙幣(初回発掘品300 個)の価値を守りたい、通貨膨張としてのインフレーションは断固阻止したいという気持ちもわからないでも無いですが、普通に考えてそれは無いです。こうした特徴的な完成されたフォーマットの陶器が、わずか数百個のみ作って他は一切無いなどということはありません。どういった王朝で、どういった目的で、そしてどういった窯場と陶工たちによって作られたのかは謎ですが、少なくとも数百年の間に何万何十万、もしくはそれ以上の膨大な緑彩陶器が作り続けられたと考えるのが自然です。
というわけで、ミャンマー白濁釉緑彩陶は今も掘り出されてはマーケットに現れています。古美術品の価値、器の価値とその魅力、現れては消えた歴史や出自など、この東南アジアは陶磁器ひとつ取っても、ものづくりの魅力に堪えません。そんな場所で、私たちも新しい価値と新しい美しさを目指して製品づくりに励んでいます。(Jiro Ohashi)

2014年12月1日月曜日

土の中から(その1) from underground 01

わけあって陶器に関する勉強をしています。最初は何気なく観光客向けの土産物としてのセラドン焼きから入ったのですが、セラドンにも様々な窯があり、いくつかの製造メーカーがあり、その作りにもかなりの違いがあるようでした。かつての高級陶器セラドンも肉厚で鈍重なものが増え、デザインも安易で垢抜けず、その特徴的な翡翠を思わせる美しく淡いグリーンも 、いつの間にか品のない青や赤みの掛かった不要なバリエーションが増えていました。
そうして失望していた矢先、食器棚の奥から10年ほど前に買ったセラドンの椀を発見します。その椀はシンプルな美しいフォルムで、装飾は一切なく、なにより薄く繊細な作りは指や掌、唇にあたった感触も格別です。今の鈍重な土産物セラドンとは全くの別物でした。あまりの作りの差に愕然としつつ、少しずつ少しずつ厚さや色味が変化しても意外と気がつかず、名称としては同じ製品でありながら、それでもいつのまにか別物になってしまうデザインの劣化を目の当たりにしたものでした。

この10年前の器の高台に記されたメーカー名を頼りに、その会社の所在を調べ工房を訪れました(それは意外にも私たちの会社のすぐ近くにありました)。併設されたショップでこのセラドンメーカーの製品を改めて見てみると、それは家の食器棚に仕舞われていたのと同じもの、いわゆるかつてのセラドンでした。肉厚で鈍重な土産物とは違った、姿形も美しい、エメラルドグリーンの釉薬のガラス質の表面に、細かい貫入が入った、チェンマイ陶器の名声を高めたかつての高級陶器セラドンです。頭では理解していても、作り手により窯により、こうまで違う陶器の実際を図らずも目の当たりにし、これはチェンマイ周辺の北タイの陶器に改めて興味が向かうきっかけとなりました。

チェンマイは優れた伝統工芸の街として知られています。織物、銀細工、花細工。竹細工に家具、木工などなど。あくまで陶器もその中のひとつでもあるのですが、たまたまきっかけとして、この地のものづくりの本質に触れる入口として、陶器の存在があったということです。
その後、こちらならではの器に注意して目を向けるようになり、屋台や地元の食堂などで使われるチキンボウル(ランパーンの鶏碗 http://fromchiangmai.blogspot.com/2013/07/1chicken-bowl-01.html)に惹かれ、その歴史を調べるなどしていると、当然その先は北タイの陶器の歴史に突き当たります。大量のレコード、CD、本、雑誌。電子楽器にラジカセ、オーディオ、各種ガジェットもろもろのコレクションに溺れて来た身としては、触れてはならない大変危険な領域です。

陶器の歴史などといえば、書籍やネットの情報を頼りに調べたところでたかが知れています。当然現物に学ばねばならず、それに触れる必要があります。しかしこれらは博物館や美術館のガラスケースの中に収められた貴重な文化財か、もしくは希少なアンティークです。そうでなければ各種の展覧会図録や写真集で間接的に確認するよりありません。
古美術における陶器といえば、中国陶磁をその頂点に、朝鮮半島、そして日本の古陶磁が主流です。そんななかで東南アジアの古陶磁はといえば、中国の影響を色濃く受けたベトナム(安南)、そしてチェンマイ周辺の北タイの古陶磁が際立っています。12世紀のクメールから13〜15世紀のスコタイ王朝をその絶頂期に、北タイ周辺の固有の美意識と大胆なデザイン、そして繊細で細密な手技、それに当時世界の最先端であった中国から伝わった窯と生産技術が合わさって、ちょっと他には類を見ないオリジナリティ溢れるタイの陶器が花開きました。

日本には室町〜戦国期より伝わり、時の権力者や茶人に愛されたスワンカローク焼(いわゆる宗胡禄/スンコロク)などスコタイの各窯、カロン、サンカンペーン、パーン、ハリプンチャイ、そして現カンボジアのクメール等々、それぞれの窯が強力な個性で特色豊かな器を大量に生み出しました。当時の陶器は単に食器という枠を超え、その国の技術力、国力を示すものでもありました。穀物など農産物(および肉や魚といった食料品)と、衣服としての布(織物)は財力を示したでしょうが、それに加えて陶器は更に、権力者の使う贅を尽くした日用品、神事に用いられる神聖な道具、そして宝物、副葬品といった具合に特別の意味合いも強かったでしょう。
実際スコタイはタイ族による初の統一王朝でしたし、13世紀後半の三代目の王、ラームカムヘーン王の時代には国力も隆盛を極め、文化芸術も絶頂であったといいます。王は初のタイ文字を定め、中国との交易を行い、この時代に中国の陶工たちが招聘されたと伝わります(当時の最先端技術です)。タイ初の産業として陶器の輸出が行われたのもこの時期です。こうした器(スワンカローク焼き)はチャオプラヤー河を下りシャム湾に出て貿易船に積まれ、アジア各地を廻り遠く日本までやって来て宗胡禄となり、戦国の世の茶人たちに愛でられた、ということです。いろいろ繋がってます。

タイの古陶器の面白さのひとつは「評価の固まらない」柔らかさであると思います。日本の古美術骨董の世界では年代や場所(窯)、品質や状態はもちろんですが、その品の伝来、所持、書付や時代箱の有無など、明確な鑑定基準なるものがあります。ところがタイの陶器の場合はそうした面倒くさいもの(特に否定はしませんが)はほとんど存在しません。一般的なタイ人(特に北タイの庶民)の感覚からすると古いものはピー(精霊)が宿っているから好まない、もしくはそれは畏れるものであって、きちんと接しなければならない。少なくとも蒐集して愛でるものではない。という感覚があるように思います。実際、タイ人でアンティークの陶器を好んで蒐集する人は非常に少ないですし(ごく一部の好事家か研究者)、いてもそれは中華系の富裕層かファラン(欧米系の外国人)、そして日本人です。
日本の骨董(アンティーク)の感覚からすると、江戸や明治のものは間違いなく立派な骨董ですし、下手をすれば大正や昭和初期のものも骨董品として扱われる場合もあるでしょう。しかしこちらでは、100年やそこらでは単なる古道具、全くアンティークの範疇に入れてもらえません。アンティークと称するならば「やはり500年くらいは経っていてもらわないとね」という具合に、そもそもタイムスケールがまるで違うのです。

で、どういうことになるかといえば、古美術店の店頭には12世紀から15〜6世紀のものがごろごろ並ぶわけです。「そこは骨董天国か!」と勇む方もあるかもしれませんが、古美術、アンティークに対する感覚が日本などとは全く違うので、そうしたお店自体が極めて少ないのも事実です。とはいえ、こちらで古美術、古陶器といえばこの時代のものです。日本でいう鎌倉、室町、安土桃山の時代のものが主流です。500年も600年も前のものというと一瞬たじろいでしまいますが、でもそういうことです。
北タイ周辺の古陶器は王朝の興亡、戦乱などにより、18世紀にはほぼすべての窯がいったん絶えていますから、おのずと18世紀以前のもの、江戸中期以前のものになるわけです。
そんな古いものがいったい何処から湧いて出るのかといえば・・・。それは土の中からやって来ます。(Jiro Ohashi)

2014年11月19日水曜日

生後10ヶ月と築10年 10 months old & 10 years ago

会社の社屋もすでに建ってから10年を越えました。築10年といえば、日本ではまだまだ古い建物の部類ではないでしょうが、ここは南国の地チェンマイです。強烈な日差しと紫外線、亜熱帯特有の激しいスコールなどで建物へのダメージは相当です。当時、市内にあったとあるギャラリーを模して設計した室内に光のたっぷりと差し込む今の建物は、内装外装ともに白を基調としており、建った当初はそれはモダンな建物だったでしょう。そんな白亜の輝く工場も、今ではすっかり年期が入り外壁にも風情が出て来て周囲に溶け込んでいます(ものは言いようです)。南の国の建物はこうして朽ちて最後は土に還るのでしょうか? などというと「いったいどんな廃墟?」と思われるかもしれませんが、建物は使われてなんぼ、人が住んでなんぼですから、スタッフ全員が大切に使っているだけあってきちんと機能は維持されています。特に外見は。

それでも建物は衰えますしそれは人間と一緒です。肌も衰えれば代謝も落ちます。髪も心持ち薄くなりお腹も出てきて血圧高め。まあそんな感じです。外壁塗装は剥がれ気味でそろそろ塗り直しの時期、電気系統も断線箇所がちらほら。天井付近の亀裂から雨漏りも見られ、シロアリや小動物の侵入も。こう書くとやはり大変な建物のような印象ですが、こちらではこれも当たり前です。製造の現場や製品保管庫は完璧にガードしつつも、それ以外のスペースはけっこう大らかです。皆自然と共に暮らしていますから少しくらいの建物の草臥れは気にしません。逆に言えばアルミサッシやエアコン等で完璧に密閉された人工空間のほうが落ち着かない、というかこうした快適さに違和感を感じるようです。

暑季は暑いのが当たり前で乾季はそれなりに涼しく過ごし易い。もちろん私たちの感覚からすれば一年中暑いです。それでも季節の移り変わりは確実にあります。建物全体を密閉した人工空間とするのではなく、その辺は環境に合せて風を入れたり木陰を作ったりして快適さを工夫します。
例えば私たちは、冷蔵庫とテレビ(最近観る人も少なくなりましたが)は大きいほど良い、という価値観で長らく過ごしてきました。台所の食材はできる限り冷蔵庫に保存することが身についてしまっています。でも考えてみれば冷蔵庫はあくまで冷蔵庫、電気を使って外気温を常に強制的に下げ続ける特殊空間です。なんでも取り敢えず放り込む食料庫ではないのです。
先日の引っ越しの際、運送業者のタイ人の親父さんたちは、私たちの家の容量400Lほどの冷蔵庫を見て「こんなでっかいのは初めて見たなあ。人が入りそうだぞ。店(業務用)みたいだなあ」と驚いていました。日本や欧米(特に米)の感覚ではこのサイズの家庭用冷蔵庫は決して珍しくないはずです。もっと大きな外国製品もざらにあります。しかしこちらタイでは運送屋の親父さんも驚く巨大冷蔵庫となります。

都市部はそうでもありませんが、田舎へ行くと今でも瓶入りの飲み物等、保存が効くものは冷蔵庫には入れません。そのかわり冷蔵庫には氷を入れておきます。こちらの人はビールなども氷を入れて飲むのはそうした習慣からです。あとは肉とか野菜とか。常温で置いておいてはすぐ腐敗してしまうものを入れます。
というか、こちらの人々は必要最小限の食材しか家に置きませんし、何にせよ溜め込むということをしないように思えます。その日の食材はその日に市場で買う。市場自体を大きな公共の食料庫と考えているようにも思えます。バンコクなどの都市部ではまた違った印象なのでしょうが、少なくともここ北タイのチェンマイ周辺ではそう感じます。
そんなこんなで私たちの工場は、外壁の経年劣化やペンキの剥げ、築年数相応の雨漏りなどはありつつも、原材料保管室、石鹸乾燥室、そして大切な工房エリアは大きな冷蔵庫や保湿庫のように守られているのです。こうした特別な場所を維持しつつも、それでもやはり大規模修繕は避けられない状況です。

例えば犬を見ているとわかります。私たちの会社ではミー・チョックとミー・スックの2匹が警邏隊よろしく日夜会社の敷地内を安全と防犯のために遊び回って、もとい活動しています。まだ会社に来て10ヶ月くらいの0歳児ですが、犬の月齢は人間とは大きく違います。大型犬と小型犬、幼犬期と老犬期でもまた異なりますが、ざっくり人間の年齢の6倍の時間が彼らのなかで流れていると言われます。特に幼犬期の時間の流れ方はおそろしく速く、生後10ヶ月足らずの2匹ですがその姿はすでに成犬、もう立派な大人です。兄のミー・チョックなどはもはやおっさんの貫禄です。
こうした猛烈な時間の流れを目の当たりしていると、建物に流れる時間も、必ずしも普遍一定に流れるものではないと思えて来るのです。もちろん気温や湿度、日照や降水量、寒暖の差や降り注ぐ紫外線などなど、その物件の建つ場所の条件は違うでしょうし、災害や戦争による倒壊破壊もあったでしょう。それでも数百年続く石造りの街並みが残る欧州各所と、多くは人生一代限りで壊され新たに建て直される高温多湿の東南アジアとでは、そもそもどうも流れる時間が異なるのじゃないかと。
人が住まなくなった家はみるみる荒れて朽ちてゆきますが(人の気配の消えた家にはシロアリ等が安心して入り込み朽ちさせるから、とも言われますが)、そうした誰もが思い当たる現象も人の一生、犬の一生、建物の一生といった具合に月齢、年齢の違い、流れる時間の違いなのではないかと。

かたや生後10ヶ月ですでにおっさんの貫禄を醸すミー・チョック。かたや築10年ではありますが、日本のマンションでいう築30年の風情の工場棟。もう十分育ったし十分働いてくれました。
ということで、工場の大規模修繕が始まりました。(Jiro Ohashi)


2014年11月18日火曜日

マイペンライ “Mai pen rai” does not mean “no problem !”

マイペンライ! といえば、タイの人たちのお気楽さや責任転嫁しがちな気質を象徴するキャッチーフレーズのように外国人の多くは思っている気がします。そして外資企業では、タイ人スタッフとの価値観や業務意識の共有しにくさの元凶のように言われることもしばしばです。
そんな中、我が社の中で多分一番「マイペンライ」を連発しているのは、意外や外国人の私です。
もちろん、用法は一般的に思われているのとは違いますが。

それは、何年も前のある年長スタッフの失敗に始まります。
当時、彼女は人間関係に悩んで仕事に身が入らずにいました。もともとおっとりした方だったこともあって、まだリーダーになりたてで、頑張ることで精一杯だったジャックさんは彼女に苛立ち、また他の生真面目なスタッフたちとも折り合いが悪くなり、更に仕事がぎこちなくなってしまう悪循環に陥っていました。
そしてとうとうある日。ガスールパッキングの時に計量ミスという大失敗をし、数箱に重量が表記と違うものが混ざってしまったのです。
幸い、箱詰め前の検品で他のスタッフが気づき、それが出荷されることはありませんでした。
ちなみにこの問題発見は、担当スタッフが、パッケージを手に持った違和感で気づいたのです。
既にタイ人スタッフたちの目や手の感覚の素晴らしさにことごとく驚いていた私ですが、その時は畏怖の念さえ覚えたのでした。

取るものも取り敢えず石鹸もクリームも全ての作業を止め、全員で各袋の重さを量りなおし、問題のあるものは例え見かけがどんな綺麗でも、ざっくりとハサミで封をあけて中のガスールを取り出す、まるで大切に育てた動物を屠ってお腹を開き、臓物を搔き出すような、切なく苦しい気持の作業が数時間続きました。
終わった時には、誰もがほっとししながらも、やはり重たいものを飲み込んだような疲労感に包まれていました。
それでも作業を終え、失敗をしてしまった彼女を見て私の口をついて出たのはまさしく「マイペンライ」だったのです。
当時の私は殆どタイ語ができず、辞書から文字を書き写したり、時には絵で指示をするといった風でした。
気持が言葉にできず、頭も胸も破裂寸前のような日々です。その中でとっさに出た「マイペンライ」は、誰でも失敗はある。気持を入れてやり直せられればいいのだから、がんばりましょうよ。何しろ問題は解決できたのだから。そんな思いから出たものだったのです。

けれど、この「マイペンライ」はその時、予想以上のショックを周囲に与えたようでした。当事上司だった日本人には「そんなだから、お前はタイ人に舐められるんだ!!もう日本へ戻れ!」と激しく叱責されました。
一方、このところ、社内の評価は厳しく、更にこんな大騒ぎを起こした自分の解雇はもう決まりだろうと、俯いて暗い顔をしていた彼女は、この拙い「マイペンライ」にはっと息を飲んで目を上げました。
「本当にいいんですか?怒らないのですか?」と聞くような彼女の顔色と目には、少なくとも私には前の悩みを抱えた頃よりも微かな明るさと力が感じられ、それならば一緒に名誉挽回してやろうじゃないの、と思うに足るものでした。
今でこそ、厳しくも大きな包容力を体現したようなジャックさんでも当時は問題に怒りを収めきれずにいました。
そこに、誰にでも失敗がある、それを一緒に越えてこそ良いチームになるのではないだろうか。皆には大変な思いをさせてしまったけれど、どうかわかって。そんな事をつたない英語や辞書から書き出したタイ語を指差し、根は情が深く優しいジャックさんもどうやら納得してくれ、息が詰まるような一日が終りました。
明けて翌日。
幸い、上司が言ったように、「マイペンライ」発言に私を軽んじる人はタイ人スタッフには居ませんでした。そして件の彼女は、私と目があうとちょっと気恥ずかしそうに笑い、仕事にも少しずつ気持が入るようになりました。そして、事件を誰もが忘れたような頃には、ジャックさんも「彼女はとても変わってきたの!とても良い働きをしてくれるの!」と嬉しそうに話してくれるようになりました。
もちろん、彼女を支え、変えた功労者はジャックさんと仲間たちなのです。
この時、もし私が上司の烈火のような怒りを恐れ、彼女が恐れたような指示をしていたらどうだったでしょう。
彼女がその夜、家で呟いたかもしれない「マイペンライ」は苦い、暗い気持を紛らわすための響きになったのではないでしょうか。
ともあれ、この件より私は、問題があったらまず「マイペンライ」と言い、自分も皆もまず一息つかせてから、問題解決にあたることをモットーにしたのです。

そこから、もう随分年月を経てつい最近のことです。
少々問題が発生したものの、スタッフ自身の力で見事解決した事をジャックさんが報告しに来た時、私たちは、久方ぶりの重さを渋い気持ちで受けとめながらも、対応にあたったメンバーたちの的確で勇気ある振る舞いや判断や言葉は、素敵で嬉しくて、涙ぐみ、笑ってしまい、なんとも奇妙な分裂的な多幸状態に落ちいっていました。
「おやおや、問題があったっていうのに、あの人たちったら笑ってるよ、どうしたんだろうねぇ!」
ミーティングの成り行きを気にしているエー・ドイさんは、作業しながら、苦笑いするほどに。
いずれにせよ、問題は無事解決され、それに対する、各担当者の綿密な対応の発案・提案もバッチリ文句無し。むしろ、製造ライン全体が効率よく引き締まった感さえあります。
ジャックさんからの報告を聞きながら、私の頭の中にはあの失敗が思い出され、そこからそれぞれが重ねてきた経験と誠実さを思っていました。

赤い目のジャックさんが、怒ったり泣いたりしながら報告を終え、最後に言いました。
「実は、私、ずーっとアサエさんが言う”マイペンライ”が重かったんです。何かある度に、大丈夫!マイペンライ!ってニコニコ言うでしょ。その度に私は、自分達の失敗なのに。。本当に大丈夫かなって首や胸がきゅーっと苦しくなって。だからいつも、大丈夫かな。今日はいいかなって、毎日とても緊張してきたんです」
少し微笑み始めたジャックさんが、またそこで顔を真っ赤にし、堰を切ったように涙をポロポロこぼし始め、私も内心いささか動揺します。
「ねえ、ジャックさん。
でもね。なんてことしたの! どうするの!ってカンカンに怒ったってさ。かえって皆緊張して考えられなくなるし、怒られるのは嫌な気分になるからって、問題を隠したくなったりするのが人の気持ちじゃない? 大丈夫! まず落ち着こうよ!それから考えてやり直せば大抵のことはなんとかなるよ。って皆で言い合った方が、良い方法を思いつくじゃない? それに、問題を解決する方法を考えて、マイペンライにするのが私の仕事だよ?」
確かに、会社で起きた問題について最後に責任を負うのは私だけれどね。本当はね、ジャックさん。とっくに、あなたたちは充分に問題解決の知恵も心の強さを手に入れたし、私こそみんなに首や胸が苦しくなるのを、どれだけ減らしてもらったのかわからないのだけれどもね、と心の中で思いながら答えます。
そう。一見、楽天的でちょっぴり無責任という印象の「マイペンライ(大丈夫)」というタイ語ですが、実は、タイの人たちにとって意外と重い言葉であり、その重さはなかなか忘れがたいものなのです。少なくとも、我が社では。

そしてかつて事件のくだんの彼女ですが、その後、孫もできて、おばあさんにも育児休暇を取ってもらう制度のきっかけにもなってくれました。これもタイの家族のありようを身近に感じ、それぞれの人生に合わせた就労環境を作るはじまりでした。
さらに彼女はまだ若い会社での、初の定年退職のモデルケースになりそうでしたが、残念ながらその手前、今年一杯で退職します。年齢的な影響で、少し本気で持病の療養をしなくてはならなくなったためです。
彼女からの申請と相談の折、ジャックさんは彼女の経験を惜しみ、忙しい時にはもし体調が良ければお手伝いに来てもらえますか?とお願いし、彼女も、ええきっとね。とちょっと涙ぐみながら答えてくれました。
今は、私とタイという場所をぐっと近づけてくれた彼女との経験と、これまでのどこか不器用でも愛おしかった尽力に感謝しつつ、その健康を祈りたいと思います。(Asae Hanakoka)

2014年11月4日火曜日

モロッコ出張 business trip to Morocco

会社のスタッフたちにしてみれば、私はモロッコで遊んでいるようにしか見えないかも知れませんが、それはFB等で楽しげな写真ばかりアップするから。今回の目的のひとつは、私たちの製品の原材料でもあるアルガンの実の植生、収穫、圧搾、集荷などの現地調査です。仲買の人たちや実から胚を取り出す女性たちの作業、オイルを圧搾する人々、などなど様々な人々に会い、話を聞き、現場を訪れています。
今日はアルガンオイルの仲買を行うアガディールのファウジさんに会いにゆく。ファウジさんは大学では医学部で医者を目指したが、途中農業に興味が移り(本人いわく「単位が足りなくて」と自嘲する)、農学部に入り直す。卒業後は政府の仕事に従事したが(モロッコでは大学を出た技術者の多くは国の仕事に従事するのだとか)、その後「プライベートの仕事」をしたくて自分で生産農家に対するオーガニック農法による農業指導などにあたり、そのなかでアルガンオイルの製造も手がけるようになったとのこと。
寡黙ながらも、話が専門領域に及ぶと生き生きと語り出す非常に知的な人物で、ヨーロッパなどに自身の製品を輸出するなどビジネスマンの面も併せ持つ。近年アルガンオイルによって貧しい農家には現金収入の道を開いたが、こうした技術者、農業指導者、ビジネスマンの存在はやはり重要。


彼の会社で話を聞いたあと、自宅へ昼食に招いてくれた。新興住宅地の4フロアのタウンハウスで祖母と両親、弟、二人の娘とで住んでいる。娘二人はモロッコ語の他、フランス語と英語を解す(上の写真は私たちのモロッコのパートナー ラシッドさんと今回ドライバーをしてくれたハリッドさんの二人に囲まれた下の娘さん:さながら美女と野獣)。
こちらの人々は生活も仕事も一族で行う場合が多く、家も大人数で住む。私たちが通された応接室と思われる部屋はかなり広く、テーブルが6卓。壁ぐるりにソファが設えてある。こちらではもてなしも男性が一切執り行うため、料理の配膳から後片付けまで全てファウジさんと弟の男二人でやっていた。
外はかなり暑く日差しも強かったけれど、家の中はかなり涼しい。ぶ厚いレンガの壁は外の熱気が室内に侵入するのを防ぎ、レースのカーテン越しの窓は直射日光を防ぐ。エアコンなど無くてもひんやりと涼しい。

アルガンの実の仲買人にはいくつかのタイプがあります。ひとつは大学を出て生産者の農業指導にあたり、品種や品質、圧搾技術の改良と研究を日々行い、生産者の収入改善を図りながら日本や欧米のコスメティック企業を相手にビジネスを行うMr.ファウジのタイプ。

そしてもうひとつのタイプが、ウィッサエラ郊外の村の仲買人ハッサンさん。彼は村で雑貨店を営みながら周辺の村の女性たちが持って来るアルガンの実を買い受ける。多くの現金を持たない彼女たちは、アルガンの実と交換したお金で日用品を買う。アルガンの実はお金の役割も果たしており、実を収穫するとハッサンさんの倉庫に預け、生活に必要な量だけ換金して行く。だから村には銀行はない。
ハッサンさんは村の誰からも愛され信頼され、村のため自分の家族のために様々な仕事をしてきた。かつては街までの交通手段を持たない村の人々のために、自分の車で乗り合いバスをやっていたこともある(もちろん運賃は貰うが都市部の相場では全くない)。年期の入ったこの75年式フォードのバンは、車というよりもはや民具。私たちが移動に使ったメルセデスのワゴン車は、なぜかハッサンさんの村で彼の旧型フォードに乗り換えた。その先の未舗装の悪路に入り、車交換の理由はすぐに判明、必死に手摺りに掴まりながらハッサンさんの家へ向かう。

色々見学させてもらいつつ話を聞き、昼食を振る舞われる。前菜のモロカンサラダから山盛りのパン、自家製の蜂蜜、ヨーグルト、そして定番のミントティ。もうお腹いっぱいと伝えるが「いやいやデザートがあるから食べてゆけ」と出て来たのは大きなタジン鍋に山盛りのクスクス。これはデザートじゃない、主食だろう! と順番の間違いに一同苦笑するが、振る舞われたものは口を付けねばならない。満腹だけれどでも美味しい。そのあと更に、石榴やオレンジ、バナナにリンゴなどてんこ盛りのフルールが出てもう限界。とにかく客人をもてなしたい、振る舞いたいという気持ちは十分すぎるくらい伝わる。
帰りは車で8時間かけて海沿いのリゾート地アガディールへ向かう。移動の際も何度かハッサンさんから電話が掛かってくる。内容は大した用事ではない。「お土産にもらったあのお茶は旨いな!」とか「もう着いたか! 気をつけて帰れよ」とか頻繁に電話してくる。移動中ラシッドさんは歯痛で痛止めの薬を飲んでいたが、それを本気で心配した彼は「いい歯医者がいる。紹介しよう!」とのことだが、ラシッドさんはマラケシュの人間、300km離れたハッサンさんの村の歯医者には通えないのだ。
そういえば我々に対しても、「どこから来た?」との問いで「日本人だが普段はタイに住んでいる。今回もタイから来た」というが世界地理に疎いらしい。「タイはどの辺だ? 遠いのか?」というので「ずっと遠くだ。東南アジアだ」とラシッドさんがiPhoneのGoogle Mapで説明する。「ああ、そこなら知っている! おれの姉貴が住んでるよ」とのこと。しかしラシッドさんによるとハッサンさんのお姉さんが居るのはリビアだという。モロッコ以外の外国はみんな遠いところであって、細かいことは頓着しない。彼の愛車にはなぜかAppleのステッカーが貼ってあるが、MacもiPhoneもiPadももちろんない。
彼は村の皆に頼りにされ、イスラムの教えを守り、村人と私たちのために良いアルガンの実を集めてくれ、子供たちと両親と祖父母を愛し、楽しく豊かに暮らしていた。愛すべきハッサン。

今回ラシッドさんに紹介してもらったファウジさんとハッサンさん。共に対照的な二人ですが、どちらも大切な私たちのパートナーとなりました。(Jiro Ohashi)





2014年10月16日木曜日

カレンの村へ village of hill tribe


バーンロムサイの麻生さんと谷岡さん、そしてダーウ。なおえさんとケンさん、そして夕子さんとでカレンの村へ。ある雑誌が主催するクラフトツアーの企画をお手伝いしており、その下見を兼ねて実際に私たちも体験しておこうということに。
少数山岳民族カレンの人々は、年配の女性たちを中心に今も色鮮やかな民族衣装を身にまとい、独自の伝統文化を守りながら、ほぼ自給自足の生活をしています。とはいえ車もあるしバイクもあります。テレビも衛星放送で観ています。連絡は携帯電話で行います。型落ちですがパソコンもありました。21世紀の現在です。観光地化された「山岳民族の村」ではなく、実際に生活している村とはこういうものです。「ほぼ自給自足」とはいえ、べつにまなじり決して現代社会と袂を分かったわけでは全くなく、日常の衣類も食べるものも住居も、その辺に豊富にあるか畑で育てるか、無ければ自分で作るかしているだけで、単に金銭と交換して得るものの度合いが極めて低いというだけのこと。


今回は夕子さんに仕切っていただきながら、カレンのメー(お母さん)たちに織りと草木染めを教えてもらう。織りは、人間の身体をMan Machineよろしくそのまま機織り器の一部として融合した、腰と腕と手先で織る手織り布。

染めは、今回は黒檀とインディゴで各自が持ち寄った白いシャツやブラウスなどを染めてゆく。
染料はそれぞれ、黒檀は実を砕くところから作り、インディゴは予め葉を水に浸けておいたものに石灰を加えたものを使います。私は白いリネンのシャツをインディゴで染めてもらいました。ユニクロの「プレミアムリネンシャツ」という名前で売られている通常品。初めてインディゴの匂いを嗅ぎましたが、どこか生臭い生き物の匂いがする。とはいえケミカル染料のつんとした臭いとは全然違います。
黒檀は染料の甕から出して干した直後は薄い茶色ですが、日光に当たると見る見る色が濃くなってゆくのが面白い。「この辺でやめ」と思っても日光に晒された黒檀はどんどん濃くなってゆきます。そう都合良く、人間の思い通りにはゆきません。均等に陽に当てるため竹ヒゴを使って凧のように拡げられた服は風に煽られ、さながらスーフィーの旋回ダンスのようです。(Jiro Ohashi)
  



2014年10月9日木曜日

聖なる、大いなる、居眠り holy nod off

工場では、早1年に及ぶこれまでとは違う忙しさから、少し疲労気味だった品質管理担当のケッグちゃんが庭で脚をくじいてしまったり、他にも数名が体調不良になったり、思いがけないうっかりから失せもの騒ぎがあったり、暫く小さなトラブルがこのところ続いていました。
更に新工場の建設が始まって、今まで以上に仕事の環境がざわつくだろうことから(幸いこちらは素晴らしく順調な進行です)、気持も場所も改めて整えましょうと、ケッグちゃんの怪我の快癒を待ってタンブンを行う事になりました。

タイ語のタンブンとは、直訳すれば「徳を積む」という意味です。どこかに寄付をしたり、何か善行を重ねて行くこともそうですが、一番良く行われるのは、お寺のお坊さんに、食事や日用品、お金などを寄進し、家や会社へ招いてお経をあげていただき、亡くなった近しい人の冥福や会社の従業員達の健康、会社の永続などを願いながら功徳を積む行事を指すことが多いようです。
北タイで、タンブンが面白いのは「アチャーン」と呼ばれるシャーマンが同席すること。もとはバラモン教の司祭に始まる役割だそうですが、今のアチャーンは、タンブンをする吉日を選び、当日もまず精霊の家(祠)に供物と祈りをささげ、本番の儀式でも、お坊さまたちに先んじて祈りを捧げたり、式次第を取り仕切り、あたかも俗世と小乗仏教の聖なる世界、また見えざる精霊の世界や冥界との仲介者の役割を果たしています。

今回の我が社のタンブンの準備が始まったのは2週間程前からです。
まずはバーンさんがアチャーンの所へ、吉日とその中でも儀式を行うに相応しい時間帯を確かめに行き、ついでお寺にタンブンのお願いをし、ジャックさんは、今回は式を行う会場が石鹸製造室なので、そこを空けられるように製造日程調整をしました。
現場チームは、その日程にあわせて仕事を進めながら、当日の贈り物の調達やお金と一緒にお皿に載せる花飾りづくり、お坊さまが皆に振りかける聖水の準備などを役割分担をします。それぞれ役を担うのも徳を積む行いのひと繋がりですから、担当に当たった人たちは何か満ちた表情でした。

こうしていよいよタンブンの日を迎えました。
たいていタンブンは午前中に行われますが、今回のタンブンを執り行うのに良き時間帯は、なんと朝の8時です。これまでは9時、10時といった時間が多く、さいわい業務時間内でしたが、今回はそれより早いのでジャックさんからは「お坊さまが見える前、朝7時半には出社してくださいね。くれぐれも遅れないでくださいね?」と念押しされ、朝は5時に起きて7時に家を出る、久方ぶりの早起きとなりました。

今回、会場となった石鹸製造室はもとが白を貴重とした空間ですが、前日の午後から道具や机が撤収して、すっきりと掃き清めた床に、白い布を敷き詰めたおかげで普段以上に清らかに澄んだ空間になりました。こんな風に場所を改めて整えて行くことも、タンブンの過程の一環なのでしょう。掃除を終えて床に布を敷き詰めた直後、ケッグちゃんが「ああ、綺麗で気持いいな! ふぁ〜」と、ほっと息をついて床にごろんと横たわり、布に頬擦りしていたのも納得です。長らく緊張続きで怪我をしてしまったケッグちゃん、繊細でエモーショナルな面がずっと目についていましたが、この掃除をして、彼女のもう一つの美質、伸びやかでおおらかな面が戻って来たようでした。まさにタンブンの効用です。
タンブンの朝は淡い朝霧が立ちこめて、雨季明けの気配が漂うこれまで以上に清涼なものでしたので、前日整えられた白い伸びやかな空間には、更に新鮮な柔らかい光が大きな窓から入り込み、清雅さが加わっていました。

白い気持の良い空間を深呼吸しながら座っていると、アチャーンやお坊さまたちが到着し、スタッフたちによって捧げものが運び込まれ、アチャーンがしつらえた小さな仏像を中央に据えた祭壇に、バーンさんとディレクター氏が灯明とお線香が捧げ、儀式が始まりました。
まずは、アチャーンがお経を唱え、それを引き継ぐようにお坊さまたちがお経を詠みます。
韻を踏んだうねるような抑揚の響きは言葉はわからなくても心地良いものです。合掌し目を閉じていると、気持が穏やかになり身体の緊張がほどけて行くのがわかります。しかも部屋には朝日がぼおっと満ちて光の箱のよう。
なんともホリーな心地でいると、静かに祈っていた筈のスタッフたちの列の奥で、くすくす笑い声とざわついた気配が起きはじめました。声や気配から察するに姐さん組ではなく、まだ気持も若い女子組のあたり。内心「こらこら」と思いながら、ちらっとみると案の定です。けれども原因は彼女たちの中ではなく外にあるよう。その視線の先は、お坊さまたちの中でした。

今回のお坊さまたちは、リーダー格の年長の方以外はいかにも修行が始まったばかりの年若いお坊さま方で、そのうちのお一人が半醒半夢になっているのでした。
おかげでお経を唱える口元が次第に曖昧になって、ふっと頭が垂れ、また暫くすると首を持ち上げて・・・。の繰り返し。それが運が悪いことに席が横に並んだ列の真ん中で目立つことといったらないのです。また、右端の方はまだお経が少しおぼつかないようで、姿勢にも緊張と不安が漂って、こちらが「がんばれ!」と声援を送ってあげたくなるよう。
大切なタンブンですが、自分たちも早起きは大変だったのもわかるし、まだ高校生のような表情は家族の誰かの無邪気な姿に似て可愛くもあり、サフラン色を纏った尊い方も生身の途上の人であるのもわかって親しみも感じます。どちらのおぼつかなさも成る程、くすくすしたくなるというものです。

女の子たちの視線に誘われて、私も周りを見回すと、新米のお坊さまたちのおぼつかなさを鷹揚に眺めるアチャーンも、祈りの合間に印を結んだ手で口元を隠しながらそっと欠伸をかみ殺し、もう10年来お付き合いして来たその背中は少し痩せ、微かに老いが縹渺と漂っています。
また、リーダー格の先輩お坊さまも上手に息継ぎをしながら、最近出た新製品のブルーベリージュースで乾いた口元を湿らせ「おや? 美味いじゃないか、どこの会社のかね?」という風に瓶のラベルを覗いたりします(式が終ってからは、後輩たちと盛大にためつすがめつしていました)。
スタッフたちも、懸命に祈っている人、時折きょろっと辺りを見回す人、痺れた脚をさする人、祈りながらもその様子は十人十色です。
けれど、「せっかく少なくないお金を出してお供えを整えて、朝の時間を削ってまで集まったのに、なんていい加減で手抜きなんだ! 不謹慎なんだ!」などと、ぴりぴり目を吊り上げる人はでもここには誰もいません。ただふくよかな気配があたりには漂っていました。
そしてお経が終ってお坊さまに神聖な水を振りかけていただき、アチャーンに、祈りの込められた糸「サーイシーン」を手首に巻いていただいて式がお開きになれば、誰もが晴れ晴れすっきりと、満ち足りた顔でした。

そんな、ゆったりと象の歩みのように鷹揚な式の運びと受容と祈りの形に、私は自分も含めてこの会に集まった人たちの人間臭い図が寒山拾得や五百羅漢の姿のように見えてならなかったのです。
ある矛盾に気付いてくすくす笑うのも、内なる痛みを越えようと懸命に祈ることも、少し自分というものが不安になってあたりの様子をうかがってしまうのも、それはあなたであって、また私であり、更に大切な誰かでもある。
故に、全てが何か見えざる大きなもの、大きな流れの中に等しくゆったりとあって、それぞれがその流れの形を慎ましく、しかし自由に率直に体現し、少しでもより良くあろうと祈るような、タイの人たちの心のありよう、居ずまいが、何とも立派で、また愛おしくてならなく思えたのでした。
きっと、うっかり夢と現を行き来してしまったあのお坊さまも、次に来る時には見事なお経を披露してくださるでしょう。実際、いらした方の中には前回(昨年)はお経も読めず声も出なかったのに、今回はすっかり唱和の中心になっていた方がいましたから。(Asae Hanaoka)

2014年9月24日水曜日

ふと思い、そしてじっくり考えたこと(その1) It flashed across me(01)

ふと今の仕事を振り返ることがあります。学生時代のアルバイトを含めるとこれまでずいぶんいろいろな仕事をさせてもらってきましたが、そのどれもが事務仕事や販売業、サービス業といった職種ばかりで、製造業(ものづくりの現場)という業種自体が実は初めてだったということに最近気づきました。
製造業といっても種々様々で、洋服や靴など身に着けるものに始まり、鉛筆やコップや机のように日常的に使うもの、食料品から電化製品に至るまで私たちの身の回りにはありとあらゆるものたちで溢れています。これだけのものに囲まれ、使う生活をしているにも関わらず、今までものづくりの現場を体験することもなく、そしてまたそれほど気にすることもなく過ごしてきた私の、今までの暮らしや仕事というのはずいぶん偏っていたものです。
なにも仕事で経験しなくても、おそらくみんな普段の生活の中で体験してきているのでしょう、子どもはいつの時代でも遊びを考えだしたり、ものを他のものに見立てたりする天才だと思っていますが、私は図工や技術家庭科の授業以外でなにかものを作ったという記憶もあまりありません。小学生くらいの時は自分で遊びを考え出したり発見したりしてそれなりに楽しんでいたとは思いますが、せいぜい人並み程度のものでした。いったいどんな子ども時代を送っていたのでしょう。

思うに、ものづくりに興味がなかった訳では決してなく、興味はあるけれど突き詰めてやり遂げるだけの根気はなく、周りの大人はみんな忙しく、何となく形になればまぁそれでよしとする、いわゆる飽き症でいいかげんな性格が災いして、作ることの楽しさを知らない大人になった気がします。
こんな私が、ものづくりの分野の中でも手作りでものを生み出す仕事に関わる機会が得られるなんて、1年前の私ですら想像していなかったのに子どもだった頃の私が知ったらびっくりするに違いありません。

最近友人と会ってゆっくり話をする機会があったのですが、私は転職して半年足らず、友人は今まさに転職しようとしているタイミングだったので、話す内容はついつい仕事の話になりました。その時友達に「あなたの仕事に対するモチベーションは会社に対する責任感や貢献度に左右されるんだね」と言われ、ドキッとしました。「仕事ってそういうものじゃないの」と聞くと、「例えばあなたのように手作りでものを作る会社で働くような人は、ただ石けんを毎日手に取って触れることが大好きで、幸せだっていう人が多いんじゃないかと思った」という友人のその言葉を聞いて、目から鱗が落ちた思いと同時に少しショックを受けました。
石けんが好きかどうかという問い以前に、それの作られる過程を知ろうともせず使うだけだった私がこの先働いていけるかどうか、急に不安になったのです。
今、ものづくりの過程や新しいものが生まれる試行錯誤の段階を目の当たりにする毎日を送っていますが、なにか課題にぶち当たったとき特に、作られる過程を知ろうとせず使うだけだった私の想像力・発想力の低さを痛感しています。
今までの私は、ものづくりの仕事は単調で同じことの繰り返しで地味とどこかで思っていました。それだからいつも興味のあることが散満としていて、少し手をつけてはひらひら飛び回っていました。でも、同じことの繰り返しだからこそ日々の微妙な違いに気づき、同じことを繰り返してきたからこそ解決法を生み出せる。今まで何度となく耳にした言葉ですが、実感を持って理解することができたのはこの仕事に就けたからこそです。

農業や製造業に携わり、様々なものを生み出すことを生業にしている人たちと一方、私のようにただただ使って消費するだけの人。生み出す暮らしを常にしている人たちの知恵・知識・忍耐に、ただそれらを消費するだけの人々は絶対に敵わないなと気づいたとき、今まで漠然と、でも常に感じていたスタッフたちに対する尊敬の気持ちの理由がやっとはっきり分かった気がしました。

そして、私たちの会社のスタッフは会社の休日に農業に従事している人も多いという事実も私のこの気持ちを裏付けしてくれているようでうなずけます。(Momoko Katsuyama

2014年9月19日金曜日

不法侵入事件発生 adorable trespassers

空の色こそ雨季らしい澄んだウルトラブルーで、場所によっては洪水も起きていますが、今年はこの辺りはなかなか雨が降りません。
おかげで毎日ソンクラーンの頃にも似た暑い日が続いています。あと2ヵ月ほどしたらやってくる寒季を思うと、この時期のこんな熱気と小雨は旱魃の原因です。農家にとっても大きな打撃ですし、ありがたくないこと極まりないですが、ひとつだけ今年は私たちにとっては助かることがあります。
始まって2週間経った新棟、ガスール棟の増設工事です。

最初の週の3日ほどこそ、スコータイ地方で洪水が出るような大雨で、「なんで工事が始まった途端雨なんやろ」と担当女史は苦笑いしていましたが、その言葉が天に届いてしまったのか、それ以降は連日の天晴な晴天続き。そこへ真面目な現場監督と職人チームの堅実な仕事ぶり、バーンさんや担当スタッフ、あろうことか過去に工事現場の仕事の経験があるスタッフが他にも数名いて、彼女らの何気なくも鋭い目配りが相まって、みるみる基礎と柱の枠ができたと思ったら、週末にはそれらはコンクリートでしっかり固まり、今日は、梁を作る骨組み作りが始まってしまいました。

この工事で面白いのは鉄筋コンクリート造りのモダンな建物を作るにも関わらず、壁の骨組みや作業用の足場は、竹やユーカリを組んで作る点です。
竹はいかにも緑豊かな東南アジアらしく感じます。道具や工事現場の足場にもなれば、燃料にもなり、むろん放っておいても土にも還り、なおかつ成長の早い竹は、この地では古くから、籠や天井、壁材として編まれ、平に広がるように刻み目を入れて割って屋根の材になります。またダイナミックに輪切りにしてコップや器や、素朴で優美な家具に姿を変えます。こうして長らく生活に取り入れられてきた素晴らしく汎用性が高いサスティナブルな資源です。
ユーカリも土地が痩せていたり、水が少ない地域でも早く育つ樹木として、一時期、あちらこちらで良く育てられた木です(最近では、更に土地を痩せさせること、地域本来の植生を生かすという見地から、以前ほど用いられなくなっているという話もありますが)。まさに私たちの工場を建てるのに相応しい資材と言えそうです。
そんなご託を並べなくても、ホンダの大きな販売店の出店告知や選挙、警察の道路規則、シックなコンドミニアムを売り出す広告看板などを建てる支柱も多くは竹、電電公社や電気会社の職人たちが電柱に登る時の梯子も竹です。そうした需要に答えるべく、竹の棒を売る店は方々で良く見かけます。そのように至る所で竹は、未だごく普通にタイの生活の中、現役で活躍しています。

話が横道に逸れました。
一見全てが順調そうな、興味深く明るい空気満ちる工事現場で、小さな事件が起きました。
床の基礎にコンクリートを流したのは週末土日の事ですが、明けて月曜日。
基礎とどこかローマの遺跡などを想起させる柱を眺め、うわぁ、なんて素早い手際だろう。と、完成した工場を思い浮かべながら基礎の上に立った瞬間。
目に入ったのは、足元にアブストラクトに散らばる花模様。
慎ましい梅の花模様もあれば、花というにはいささか荒々しくいびつなのもぽんぽん、ぽてぽて、ぱたぱたと沢山。
どうやら休日中、この風通しも見晴らしも良い気持よい空間を、一足先に存分に満喫した輩たちがいたようです。

まだ固まりきらない、コンクリートの上を歩くのは、新雪の上に最初の一歩を刻むようでさぞかし楽しかったでしょう。
水気を残し、ひんやりした床は、ふかふかした毛皮のお腹から熱を取り除いてきっと良い塩梅だったでしょう。
そういえば、以前、倉庫前の大きなコンクリート敷きの通路を活用して、トン単位のガスール作りの大規模なワークショップを社内で行った時にも、そのガスールの真ん中に立派な花型を残し、ジャックさんたちに大目玉を喰らった真っ白な尖った耳が可愛い小柄な毛皮族がいたのが思い出されます。
ちなみに、ガスールは肌理の細かいなめらかな製品を作るために、粒子の粗い原材料鉱石をいったん水に溶き、屋外のテラスなど平らな場所に薄く広く流します。水をたっぷり含んだガスール溶液は天日に晒される過程で微細な気泡を含み、自然乾燥してひび割れ状になったものは、ふわっと溶けやすいチョコレートの欠片のようです。そしてこれを集めて製品とするのです。この天日干しの段階、チョコレートのように美味しそうな一面茶色のきれいな床に、先代の番犬くん "毛皮族のいたずら者" が侵入し、しっかりとその足跡を残したのでした。

さて今回の侵入者たち、これはもうどこからともなくやって来て、不思議な道具を沢山持った見慣れない姿や匂いに、ばうわうと吠えたて見知りしていたのもつかの間、「危ないぞ!」と叱られながらもニコニコ笑いながらトラックが運んでくる砂山に駆け寄っては穴を掘り、鉄骨の匂いを嗅ぎ、他所から到来するものを見聞していた我が社の毛皮を着た警邏隊、由緒正しいタイ犬の血を引く「ミー・チョック(ラッキー君)」、「ミー・スック(ハッピーちゃん)」兄妹です。そして、”たぶん夜は”鼠駆除などで活躍しているだろう、でも本当は何をしているのかよくわからない、ひねもすのたりのたりの白黒猫「うしくん(牛柄なので)」の仕業であることは間違いありません。

もちろん昼間は、その身を思いやってですが「寄るな!」「ごら!危ない!」と叱られてばかり。不本意の日々を送っていた番犬兄妹は、誰かの役に経つのが幸せという犬の優しい本性に従って、工事を応援し現場を偵察、安全性を確認するつもりだったのでしょう。
うしくんの方は、純情な兄妹に先住者としての存在感を見せつけたかったのか、単に涼しかったからだけかもしれませんが、それぞれ、人の気配が去った工事現場へそっと忍び込み、それぞれに新しい場所を見聞し、証を残したのでしょう。名高い史跡や山中の大きな岩にうっかり印を付けたくなる、人も犬もいつの時代もやることは一緒です。

それにしても随分と賑やかな印ですが、その「仕事」の証は、配管や内装工事によって遠からずどこかへ紛れてしまうことでしょう。
それでも職人さんたち、スタッフたち、大勢の目や気持が刻まれながらできあがって行く場所に、一緒に暮らしている小さないきもの達も興味津々、そこにともにありたいという気持は、懐の奥のお守りのようにそっとこの場所の奥底に秘められながら残ることになります。

私たちが作るものの材料は、苛性ソーダを除けば殆どが土や木、植物や蜜蜂からもたらされているものです。
それらを美しいものに変容させるのは人の手ですが、それも他の生命たちの恩恵を受ければこそです。そのように様々な生命が共にある事を感じる場所を作るのです。小さないたずらものたちがその痕跡をつけたとしても、それは歓迎すべきこと、様々なものが共にあるという愛おしい証明の印のように思えます。(Asae Hanaoka)

2014年9月10日水曜日

私たちの工場〜バナナとココナッツとサトウキビのように our factory!

8月30日、土曜日。本来は休日。いかにも雨季な少し暗い小雨。朝7時少し前・・・。
普段ならば1週間の仕事を終えて、まだベッドの中でうとうとしている時間です。
にも関わらず、会社にはジャックさん、ガスールチームリーダーのエー・ドーイさんを筆頭に古参スタッフたちが顔を揃えました。
夕べの大雨で、途中の道だって悪路だったはずなのに、皆なんとも晴れがましい表情です。
ほんのりお化粧もしていれば、皆なんとなく、普段よりお洒落をしているのですが、何故か足元だけは裸足にサンダルです。

日本でも建物を建て始める際には、地鎮祭が行われますが、タイにも良く似た儀式があります。
「ピティ クン サオエーク サオトー」と言い、「サオ(柱)」という言葉があるように、こちらでは、基礎の穴を掘ってから、最初の柱と二番目の柱を建てる時に行います。
今日8月30日は、その儀式を行う日だったのです。

タイは仏教国ですが、かつてはバラモン教が信仰され、それ以前には精霊信仰があり、特に北タイではその混淆が色濃く残っているため、「ワイ・ピー」と呼ばれる精霊のための儀式が幾つもあります。
それを取り仕切るのは、アチャーン(先生)と呼ばれる在野のバラモンの司祭ですが、実際にはシャーマンのような存在です。
タンブンという徳を積むための仏教儀式でも、なぜか最初にアチャーンが精霊に対して儀式をし、その後、お坊さんたちと信者たちの仲立ちのような役割をするのもアチャーンです。実は、タイにはとても多層的な信仰世界があります。

そのような儀式やシャーマンが存在することからも分かるように、多くの人々は見えざる者の存在を信じていますし、我が社のスタッフたちも、製品を輸出した翌日には、精霊の家に製品の無事の到着や、これからの仕事が良きものになることを祈ります。
また近隣の村の人たちには、私たちの工場には見えざる住人たち(?)が数多く住まうことが知れ渡っており、中にはとても強く素晴らしい守護の力を発揮する存在もいるのだと、皆さん噂しあっているそうです。実際のところはわかりません(笑)。もし仮にそのような存在が居ないのだとしても、人を包むこの自然は、素晴らしく畏怖すべきものですし、そこから顧みて自らの身を低くし、謙虚であろうと意識することは、心を穏やかに保つのによいものです。

ともあれそのような場所ですから、地面に刻み目を入れ、掘り返し、普段とは違う人や物や道具が出入りし騒々しくするにあたっては、尊い見えざる存在たちと生活の糧をもたらしてくれるこの場所に対し、しばし続く不調法の了承を得ながら予め詫び、その先においてはより良い場所にすることを約束しなくてはなりません。
少し厳粛な気持を抱えつつも、今まで以上に存分に働けて気持のよい場所ができる期待で胸をいっぱいにしながら、スタッフたちはこの朝の儀式に集まったのでした。

10年と少し前、今私たちが仕事をしている工場を建てた時は、まだ誰もが新米で自分の事に精一杯でした。
当時仮工場として使っていた古いタイ式の家の薄暗い階段の踊り場で、事務机の代わりの段ボール箱で事務作業をし、言葉もままならない中で未経験の仕事を幾つも抱え、身も心も緊張と不安で石のように固まってビリビリしている私の傍らで、まだ加わったばかりのジャックさんや、まだなににつけ暗中模索・ヒヨコならば、頭とお尻に殻がまだくっ付いているようだった新米スタッフ(メーオさん、エー・ドイさんら、現・古参の姐さんスタッフ)たちは、こわごわ、しかし懸命に日々のトレーニングと仕事を続けながら、工場建設をどこか不安げに、遠巻きに眺めていました。
きっと、当時の彼女たちは、新しい工場ができたらそちらに移らなくてはいけないのかしら? 本当にできるのかしら?(建物の建設も、資金繰りなど見切り発車して途中で頓挫することは、こちらではままあることです)それよりその時まで、私、ここに居られるのかな? 頑張れるかな? この間失敗しちゃったし・・・。などなど、今のどっしりぶりからは想像もつかない身の細る思いに苛まれていたでしょう。

ちなみに、私たちがこわごわ眺め緊張しながら接していた、この工事現場には後で分かることですが、大変な宝物が隠れていました。
工事の現場で、職人としてバーンさんとカーンさん夫婦が働いていたのです。
もともと資材管理も任されており、親方の信頼篤いことはすぐ分かりましたし、言葉は分からずとも仕事ぶりでは目立つ二人でしたから、その様には畏敬の念を覚えてはいたけれど、まさか後に自分たちの仲間になるなんて!
まして会社の外回りを一手に引き受ける見事な知恵と腕前を持つお父さん(バーンさん)と、観察力鋭く知恵と包容力豊かな未来の石鹸リーダー(カーンさん)になるとはその頃は、誰一人想像だにしていませんでした。
バーンさん達だって、よもや自分達が建てた場所で働くことになるなどとは露程も思っていなかった筈です。

ともあれ、誰もが不安いっぱいで、おそるおそる暗い海へ漕ぎ出したような当時と、今回はその始まりの雰囲気が全く違います。
今回の新しい工場は、スタッフ達がこの10年間、まさに「道具」の一つとしてこれまでの工場を活用し尽くしたうえで、新しい空間の活用アイデアを出し合い、設計士の方と話し合って作り上げる場となりました。おそらく、それぞれの頭の中には新しい工場が隅々まで見え、働いている自分たちの姿さえ思い浮かべているでしょう。
おかげでこの儀式も、10年前のそれは立ち会いはごく僅かな形ばかりでしたが、今回は早朝わざわざリーダーたちが駆けつけたばかりでなく、特にガスール担当のエー・ドイさんは普段よりお洒落にもお化粧にも力が入り、記念写真も何度も撮って、それは嬉しそうな、思いきり心のこもったものになりました。
ガスールチームは一番仕事も人数も多いのに、逆にそれが災いして作業スペースの広さや明るさ、電気の配線などには不自由をし、その中でもエー・ドイさんは皆をまとめあげて来たのです。新しい工場は用途をガスール製造を主目的にした空間ですから、喜びもひとしおなのはよくわかります。

儀式はジャックさんが市場で買って来てくれた、餅米と甘い焼豚を食べ終わって7時半頃、バーンさんが、いつもお世話になっているアチャーンを連れて来ると始まりました。

まずは、アチャーンが敷地の中心にある精霊の家(ピーの祠)の傍らに東西南北と天地を祀る台を作って、前日にパーンさんやナイさんたち、今日は来れなかったスタッフ等が作ってくれた供物を各世界に居る精霊たちのために飾り、祈りを捧げます。
次に、最初に立てる二つ柱にバナナとココナッツの実の房、バナナとサトウキビの苗を括りつけると、アチャーンは更にその柱にへその緒のように太い糸の束を結び、祈りの言葉を唱えながらソムポーイの実などを入れた聖なる水を花につけて、柱や基礎の穴に振り掛けて清め、それから工事の職人さんたちがその清められた柱を土台の上にしっかりと立てます。
そこへ、それまで手を合わせて祈っていたスタッフたちが、タイでは縁起の良い数である9バーツをそれぞれのお財布から取り出して基礎の穴へ投げ入れました(小額とはいえ、このお金はおのおののお財布から出しました)。そんな所にも、自分たちが作る場所なのだという気概と願いが感じられます。
更にアチャーンが祈り「はい。もうお開きですよ」と声をかけると、最後の仕上げに工事の真似をします。
大きな盥いっぱいのコンクリートをバケツに汲んで、基礎の上へ掛けるのです。(お洒落したに足元が裸足にサンダルだったのはこの作業のためでした)
ちょっと年功序列は気にしながらも、つい我れ先になってきゃっきゃと笑い合いながら、何度も何度も何度も注ぐさまは、なんとも嬉しそう。改めて「私たちの」工場なのだという、一人一人が施主になったような気持が伝わって来て嬉しくなりました。

さて、柱に括りつけられた植物たちには意味があります。
バナナとサトウキビの苗はどちらも成長が早いことから、安全に遅れることなく建物が立つように、そして良い場所としてすくすく成長するように。ココナッツとバナナの実はどちらも沢山大きな房になること、また男女和合の象徴であることから(実際の我が社は女性が多く、心優しいアマゾーヌの集団のようですが)、この場所に大勢の家族ができて皆が豊かに幸せに暮らせるようにという意味が込められています。

最初は不安いっぱいに始まったこれまでのもの作りの旅も、振り返れば楽しいものでした。その証拠は、この場所はとりあえず収入を得るために通う仮初めの場所とは違う、皆にとって大切な場所へと少しずつ変容してきた過程が示しているように思います。
更に新たに建てられようとしている工場のプランには「ここは私たちの工場なのよ!」というそれぞれの気持が根を降ろした居場所、舞台、生きる場所だという気持がこもっている気がします。
もちろん、それぞれが担わなくてはならない責任と役割はあり、重さも範囲も異なりますが、この工場が、誰もが「私の、私たちの」と感じ、生き生きと日々を過ごし、人生を重ねて行ける場所になって欲しいと改めて願う日となりました。(Asae Hanaoka)



2014年9月1日月曜日

会計士の秘密の顔 the secret of our accountant

よくぞこれだけ個性的でしっかり仕事をする良き人たちが集まった、といつもありがたく思う我が社の面々ですが、その運営を支える実務家の双璧といえば、製造マネージャーのジャックさん、そしてもう一人、忘れてならないのがアカウントマネージャー、経理のブンさんです。

どちらも既に10年選手。30代なのに童顔(?)で年齢不詳です。ここまでは二人共通ですが、ジャックさんが声や雰囲気が愛らしく、健気で柔らかなのに対し、ブンさんは声も居ずまいも密やかでいてきりっとした、ボーイッシュな風情です。
そのせいか、決算などの節目に会社にやって来る会計事務所のスタッフ、ベンさん(女性です)とは学校の同期でもあるそうですが、抜けるような色白の肌とセミロングの少し色の薄い髪の清楚な美貌に似合うワンピースやブラウスとスカート姿のベンさん(見た目はいかにも可憐ですが、実務に関しては切れ味鋭いナイフです)が、ジーンズにTシャツ姿のブンさんと、澄んだ声で静かに話し合いながら仲良く仕事をしている様子は、姉と弟のようであり、また微かに女子校のプラトニックラブや宝塚めく芳しい雰囲気。
声を掛けるのが申し訳なくなるような、恥ずかしくなってしまうような、まさに「腹心の友」のきれいな空気が漂います。きっとお互いに、共に学び切磋琢磨してきた友人への深い信頼があるのでしょう。この腹心の友二人が、税務署の理不尽な要求にも、冷静かつ敢然と対応してみせた武勇伝は、記憶に新しいところでもあります。

そんなブンさんですが、普段はこの人の中にはネジが入っていて、それが揺るぎなくカチカチと動いているのでは? と想像してしまうほど淡々と、もうこれ以上の実直は無いのでは?? いやそこまで詰めなくても・・・。と、こちらが思ってしまうくらい、きちんと着実な仕事ぶりです。
おかげで、ほんの少し書式から外れた領収書をもらって来ようものならば「これではいけませんよ」と厳しい対応をするので、畏怖もされています。かといってダメだの一点張りの木で鼻をくくった態度で突き返すわけではなく、その理由とどうすれば良いかを丁寧に伝えます。自分のためだけでなく、相手のためも思った対応をするのもまたブンさんなのです。
畏怖されていると言いましたが、これはあくまで仕事の緻密さに対してで、昼食の時は現場の姐さんスタッフたちと、冗談を言いあいながらお弁当を分けっこしている、おおらかで気取らないのもまた彼女です。
そんな姿勢はスタッフたちの雇用環境への目配りにも反映され、我が社の休日や社会保険などの対応の堅実さと細やかさは、スタッフたちの会社への信頼の要因の一つともなり、おかげでスタッフの定着率は限りなく100%に近いものとなっています。

一見恬淡としているようでいて、物事に深い気持を持ち、仲間や会社を常に心にかけ、そのためには、必要とあらば大胆な判断や勇気ある意見を出すのも臆さないことからも察せられるように、生真面目なブンさんの内側は柔軟でダイナミックです。
数字やルールを扱う事は、ともすれば「こういう決まりです。こういうものなんです」という、無味乾燥な事に思われがちですし、実際そのような対応がされる例もままあります。しかし、ブンさんは、その方法の活用によって人も場所もより良くあるよう支える事を、自分のミッションにしているように見えますし、そのために方法を学んできた事が、経理会計担当としての彼女の矜持となっています。
ブンさんを見ていると、一見制約に見える事もきちんと実行することで、より良い真っ直ぐな道が開けるのだという勇気が湧いて来ます。

ある時、ブンさんと一緒に屋台で昼食を取っている時、最初は仕事の話をしていたのが、なぜか田舎で過ごした子供時代の思い出に繋がり、ふとブンさんは言いました。
「ブンは、雨が好きなんです」
「え! そうなの?」
「雨の音は、どんな音も良いですが、今日みたいに静かな雨が屋根や木の葉にあたる音を聞いていると、心がひんやりした水のように静かになって安らぎます。土や木の葉の匂いがするのもとても気持が穏やかになりますね。田舎の家にいるようであり、子供の頃の事を思い出したりもします。だから、雨の日の日曜日が大好きです」
ブンさんはチェンマイから100キロほど北の村で、農業を営む両親のもとで育ったのです。
家は昔ながらの高床式、お母さんは明るく気風の良い人で、様々な植物の知識も深い一方、広い果樹園や農場の切り盛りの手際も見事な人、お父さんもおったりとしながらも実直な人です。緑豊かな中、それについて物語り、実際にその緑と関わる事を生業としている両親の間で育ったことは、ブンさんの資質に大きな影響を与えたに違いありません。

「ブンは、植物も大好きです。庭に色々なサムーンプラーイ(タイ語でハーブのこと)や果物を植えて料理をするのは楽しいし、できれば庭に小さな菜園も作りたいのです」
なるほど、ブンさんの家(今は実家を出てチェンマイに家を建てました)は室内も、その性格を反映して常に清潔で整理が行き届いています。庭にもタイ伝統の有用植物たちはもちろん、薔薇やローズマリーなども植えられ、それらの根元の土はいつもふっくら黒々とし、いかに大切に育てているのがわかります。きっとそうしたハーブもしっかり活用しているのだろう、彼女のお手製のお弁当が思い出されました。
終日細かな数字や役所や会計のルールなどと、淡々と向かい合うブンさんですが、その内側にはとても瑞々しく、大きな世界が隠れているのを感じた、涼しさと豊かさに満ちた昼のひと時でした。

今朝も「これどうぞ。とても綺麗でしょう、美味しいんです。良い香りだから、机の上に置いてください。気持よいですよ?」と、立派なマンゴーを社内に配ってくれました。
このマンゴー、ブンさんが自分の庭で牛糞の肥料を手ずから作り、果実にはひとつひとつ袋掛けまでして丹精こめて収穫したオーガニックなものでした。その手間を語ってくれる彼女は、目が輝き、いたずらっ子のように生き生きとしたものです。それにしても、なんと我が社のアカウントマネージャーは沢山の顔を持つことでしょう!

金色だけれどまだ実は硬く、甘いだけではなく、爽やかなジュニパーや松の葉のような、涼しく少し苦い針葉樹の香りを放っているマンゴーは、まるでこれを育てた当人のようです。金の果実を鈴なりにした樹と一緒にいるブンさんを思い浮かべるだけで、こちらの胸まで穏やかで涼しくも暖かいものに満たされるような心地になります。
マンゴーの心地よい微香に包まれていると、ブンさんが、会社の将来に願うことは普段から聞いていますが、その願いの源になっている事どもも更に聞いてみたくなってきます。
例えば、彼女が感じているタイの季節の移ろい、植物は果実の香りを楽しむ喜び、以前話してくれた雨の日の事のような幼い日々の原郷などなど、彼女の目を通した世界について、時折物語って欲しいと改めて思うのです。きっと豊かで新鮮な言葉が溢れてくることでしょう。(Asae Hanaoka)

2014年8月18日月曜日

ラムヤイの木の下で  under the tree

8月に入りました。タイは雨期真っ只中で、美しい景色の中で日々が過ぎていきます。
日本では、「実りの秋」と言いますが、タイでは「実りの雨期」です。タイの季節は春夏秋冬ではなく、暑気・雨期・乾期が1年で巡ってきます(3月から5月が暑期、6月から10月が雨期、11月から2月が乾期です)。その季節の中でもタイの豊かさを一番に体感できるのは雨期である、と私は確信しています。市場に行けば一目瞭然。まずは、雨期に出回る果物の豊富さ、ライチ、マンゴスチン、ランブータン、ドリアン、ドラゴンフルーツと、トロピカルフルーツを代表する果物が所狭しと並んでいます。どれもこれも、自己表現力の強い果物たちばかりで、華があります。また、日本人に馴染みのある野菜、タケノコや新ショウガもこの時期の旬のものとして市場に並びます。食卓が旬の食べ物で溢れ、人々も風景も瑞々しく輝く、とてもいい季節です。

雨期は、私たちの会社にも同様に豊かさを与えてくれます。会社の敷地内に数えきれないほどの木々が植えられており、それらが次々と実り始めるのです。まずは、暑気の5月に実るマンゴー、雨期に入った6月にライチ、それらが一段落する7月にラムヤイ(龍眼)という具合に、順番待ちしているかのようにそれぞれの果物の季節がやってきます。これだけでなく、パッションフルーツや日本語名がないのではと思う果物の木も数種類あり、それらも実りの時期を同時に迎えます。
その数ある果物の中でも、ラムヤイは特別です。会社のささやかな臨時収入になるのは、ラムヤイだけです。いえいえ、もっと大事なことがあります。アルガンクリームの原材料に使っているミツロウは、チェンマイのラムヤイの花の蜜を集めた蜂蜜の巣から採ったもので、私たちの製品作りには馴染み深い果物なのです。
そのラムヤイの花が咲くのが、乾期が終わり暑期に入る3月頃。暑期の灼熱の太陽を浴び、雨の恵みを得て、ラムヤイの実は4か月の時間をかけて大きくなります。雨期に出回るタイの果物の中で見ると、ラムヤイは地味な外見で、大して個性的な味や香りがするわけではありません。ただ、滋味豊富なおいしさでは、ラムヤイを超える果物はないでしょう。中国では乾燥したラムヤイが漢方の一つとされていることにも、妙にうなずけます。木の根がゆっくりと大地の栄養を蓄積させて実を育てたことがうかがい知れる、実直な香りと媚びない甘さに魅力を感じます。
そして、ラムヤイの花が咲き、小さな実をつけ、その実が日に日に大きく育っていく様子を見ていると、川の水が滞りなく流れていくような安らぎを感じます。

7月初旬、お昼ごはんの物足りなさを払拭しようと思ってラムヤイの木に向かうと、誰かと鉢合わせになることもしばしばです。ラムヤイの木を見上げると、鈴なりのラムヤイが重たそうにぶら下がっています。たくさんの果実の中から大ぶりなものを見つけると、その場で食後のデザートを楽しみます。何本もある木からラムヤイを食べ比べてみます。同じ品種で、同じような木ですが、木によって甘みも香りを少し異なります。
周りを見れば、みな「ラムヤイの季節」を満喫しています。食堂に戻れば、テーブルの上のラムヤイを囲んで話しているスタッフたちがいます。また、別の休憩場所に行けば、テーブルの上にはラムヤイで作ったお菓子があります。皮をむいたラムヤイをお米と一緒に煮て、そこにココナッツミルクをかけて食べるそうです(とても甘いデザートですが、ほっとするおいしさがあります。スタッフのラーさんの手作りだそうです)。

昼食が終わるとラムヤイの木の下に向かうのが日課になったある日、やはりそこにはもう人影が。ゲーちゃんが1人、ラムヤイを口に含みながら、笑いながら話しています。不思議に思い近づくと、ラムヤイの大きな枝がユラリと動きます。驚いて上を見上げると、そこにもう1人。
「あっ!・・・ポックさん!?」
木登りしていました。ラムヤイを採るために木に登るなんて!
木の枝に上手に股がって、ラムヤイの実を次々と捥いでいくポックさんにしばし見とれてしまいました。ラムヤイの木の上には、雨期の晴れ空が広がっています。側には、通称「バーンクリーム」(「バーン」は家の意で「クリームの家」)と呼ばれているクリーム製造の建物があり、その窓にもラムヤイの実が映って見えます。
私たちの製品に使われている原料のアルガンオイルは、モロッコのアルガンの実から取れるのですが、そのアルガンの実を狙って、モロッコのヤギはアルガンの木に登る話を聞いたことがあります。ラムヤイの実を採るために、タイ人スタッフが木に登っているのを見て、その話を思い出しました
それにしても、ポックさんには恐れ入りました。モロッコのヤギもたくましいですが、私たちのスタッフも負けていません。でも、落ちやしないかと心配になります。ポックさんは、40代後半の「チャーミングなおばさん」で、決して「若いお嬢さん」ではありません。おやつに食べるラムヤイを採っている最中に、木から転落して怪我でもしたらどうするのでしょうか(かなり恥ずかしいです)。会社の倉庫の階段から落ちて怪我を負ったらまだ同情の余地がありますが。

 写真:右側がポックさん。手には、木に登って収穫した戦利品が。

8月に入り、ラムヤイが食後のデザートと休憩時のおやつだった日々が続くと、さすがにラムヤイから遠ざかるようになりました。さらに、会社のラムヤイの売却が済むと、木にまだある実には興味がなくなり始めました。そんなある日の夕方、ガスールチームのリーダーのエードーイさんが、仕事の終わりにラムヤイを食べているのを見かけました(夕方小腹が減っている時に食べるラムヤイが一番おいしいことは知っています)。エードーイさんは、目配せして掌を差し出します。掌には、見慣れた茶色の実が3個載っています。私が遠慮していると(本当は食べ飽きているので食べたくないのですが)、エードーイさんは、ラムヤイを飲み込んでから言いました。
「チョンプーって言うラムヤイだよ。食べてごらん」
聞くところによると、工場の前にあるラムヤイの木は、「チョンプー」という品種だそうです。枝ぶりと葉の色が他とは少し違います。味が濃厚で甘みもとても強いのです。
「これはね、熟すとピンク色になるんだよ」
だから「チョンプー」と言うのか、と納得しました。「チョンプー」は、タイ語でピンク色です。
いままで、ピンク色のラムヤイなど聞いたことも、見たこともありません。見てみたいです、乳白色からピンク色に変化したラムヤイが。食べてみたいです、ピンク色のラムヤイはどんな味がするのか。香りも変わるのかもしれません。
それから、ピンク色のラムヤイを食べようと、足繁くラムヤイの木「チョンプー」へと通います。大きくなった実を見つけると、皮を割っては中の色を確認することが日課になりました。
ああ、今日もまた普通のラムヤイでした。
いつになったら、淡いピンク色のラムヤイを見る日がくるのでしょうか。まだまだ熟し方が足りないのでしょうか。ラムヤイは数えきれないほどぶら下がっています。高い所から私を見下ろしている、あの大ぶりの実こそピンク色のラムヤイかもしれません。手を伸ばしても届く高さではありません。
午後の始業時間が始まる前、ラムヤイの木を見上げて想います。
木に登ってみようか、と。(Mayumi Miyajima)