2014年10月9日木曜日

聖なる、大いなる、居眠り holy nod off

工場では、早1年に及ぶこれまでとは違う忙しさから、少し疲労気味だった品質管理担当のケッグちゃんが庭で脚をくじいてしまったり、他にも数名が体調不良になったり、思いがけないうっかりから失せもの騒ぎがあったり、暫く小さなトラブルがこのところ続いていました。
更に新工場の建設が始まって、今まで以上に仕事の環境がざわつくだろうことから(幸いこちらは素晴らしく順調な進行です)、気持も場所も改めて整えましょうと、ケッグちゃんの怪我の快癒を待ってタンブンを行う事になりました。

タイ語のタンブンとは、直訳すれば「徳を積む」という意味です。どこかに寄付をしたり、何か善行を重ねて行くこともそうですが、一番良く行われるのは、お寺のお坊さんに、食事や日用品、お金などを寄進し、家や会社へ招いてお経をあげていただき、亡くなった近しい人の冥福や会社の従業員達の健康、会社の永続などを願いながら功徳を積む行事を指すことが多いようです。
北タイで、タンブンが面白いのは「アチャーン」と呼ばれるシャーマンが同席すること。もとはバラモン教の司祭に始まる役割だそうですが、今のアチャーンは、タンブンをする吉日を選び、当日もまず精霊の家(祠)に供物と祈りをささげ、本番の儀式でも、お坊さまたちに先んじて祈りを捧げたり、式次第を取り仕切り、あたかも俗世と小乗仏教の聖なる世界、また見えざる精霊の世界や冥界との仲介者の役割を果たしています。

今回の我が社のタンブンの準備が始まったのは2週間程前からです。
まずはバーンさんがアチャーンの所へ、吉日とその中でも儀式を行うに相応しい時間帯を確かめに行き、ついでお寺にタンブンのお願いをし、ジャックさんは、今回は式を行う会場が石鹸製造室なので、そこを空けられるように製造日程調整をしました。
現場チームは、その日程にあわせて仕事を進めながら、当日の贈り物の調達やお金と一緒にお皿に載せる花飾りづくり、お坊さまが皆に振りかける聖水の準備などを役割分担をします。それぞれ役を担うのも徳を積む行いのひと繋がりですから、担当に当たった人たちは何か満ちた表情でした。

こうしていよいよタンブンの日を迎えました。
たいていタンブンは午前中に行われますが、今回のタンブンを執り行うのに良き時間帯は、なんと朝の8時です。これまでは9時、10時といった時間が多く、さいわい業務時間内でしたが、今回はそれより早いのでジャックさんからは「お坊さまが見える前、朝7時半には出社してくださいね。くれぐれも遅れないでくださいね?」と念押しされ、朝は5時に起きて7時に家を出る、久方ぶりの早起きとなりました。

今回、会場となった石鹸製造室はもとが白を貴重とした空間ですが、前日の午後から道具や机が撤収して、すっきりと掃き清めた床に、白い布を敷き詰めたおかげで普段以上に清らかに澄んだ空間になりました。こんな風に場所を改めて整えて行くことも、タンブンの過程の一環なのでしょう。掃除を終えて床に布を敷き詰めた直後、ケッグちゃんが「ああ、綺麗で気持いいな! ふぁ〜」と、ほっと息をついて床にごろんと横たわり、布に頬擦りしていたのも納得です。長らく緊張続きで怪我をしてしまったケッグちゃん、繊細でエモーショナルな面がずっと目についていましたが、この掃除をして、彼女のもう一つの美質、伸びやかでおおらかな面が戻って来たようでした。まさにタンブンの効用です。
タンブンの朝は淡い朝霧が立ちこめて、雨季明けの気配が漂うこれまで以上に清涼なものでしたので、前日整えられた白い伸びやかな空間には、更に新鮮な柔らかい光が大きな窓から入り込み、清雅さが加わっていました。

白い気持の良い空間を深呼吸しながら座っていると、アチャーンやお坊さまたちが到着し、スタッフたちによって捧げものが運び込まれ、アチャーンがしつらえた小さな仏像を中央に据えた祭壇に、バーンさんとディレクター氏が灯明とお線香が捧げ、儀式が始まりました。
まずは、アチャーンがお経を唱え、それを引き継ぐようにお坊さまたちがお経を詠みます。
韻を踏んだうねるような抑揚の響きは言葉はわからなくても心地良いものです。合掌し目を閉じていると、気持が穏やかになり身体の緊張がほどけて行くのがわかります。しかも部屋には朝日がぼおっと満ちて光の箱のよう。
なんともホリーな心地でいると、静かに祈っていた筈のスタッフたちの列の奥で、くすくす笑い声とざわついた気配が起きはじめました。声や気配から察するに姐さん組ではなく、まだ気持も若い女子組のあたり。内心「こらこら」と思いながら、ちらっとみると案の定です。けれども原因は彼女たちの中ではなく外にあるよう。その視線の先は、お坊さまたちの中でした。

今回のお坊さまたちは、リーダー格の年長の方以外はいかにも修行が始まったばかりの年若いお坊さま方で、そのうちのお一人が半醒半夢になっているのでした。
おかげでお経を唱える口元が次第に曖昧になって、ふっと頭が垂れ、また暫くすると首を持ち上げて・・・。の繰り返し。それが運が悪いことに席が横に並んだ列の真ん中で目立つことといったらないのです。また、右端の方はまだお経が少しおぼつかないようで、姿勢にも緊張と不安が漂って、こちらが「がんばれ!」と声援を送ってあげたくなるよう。
大切なタンブンですが、自分たちも早起きは大変だったのもわかるし、まだ高校生のような表情は家族の誰かの無邪気な姿に似て可愛くもあり、サフラン色を纏った尊い方も生身の途上の人であるのもわかって親しみも感じます。どちらのおぼつかなさも成る程、くすくすしたくなるというものです。

女の子たちの視線に誘われて、私も周りを見回すと、新米のお坊さまたちのおぼつかなさを鷹揚に眺めるアチャーンも、祈りの合間に印を結んだ手で口元を隠しながらそっと欠伸をかみ殺し、もう10年来お付き合いして来たその背中は少し痩せ、微かに老いが縹渺と漂っています。
また、リーダー格の先輩お坊さまも上手に息継ぎをしながら、最近出た新製品のブルーベリージュースで乾いた口元を湿らせ「おや? 美味いじゃないか、どこの会社のかね?」という風に瓶のラベルを覗いたりします(式が終ってからは、後輩たちと盛大にためつすがめつしていました)。
スタッフたちも、懸命に祈っている人、時折きょろっと辺りを見回す人、痺れた脚をさする人、祈りながらもその様子は十人十色です。
けれど、「せっかく少なくないお金を出してお供えを整えて、朝の時間を削ってまで集まったのに、なんていい加減で手抜きなんだ! 不謹慎なんだ!」などと、ぴりぴり目を吊り上げる人はでもここには誰もいません。ただふくよかな気配があたりには漂っていました。
そしてお経が終ってお坊さまに神聖な水を振りかけていただき、アチャーンに、祈りの込められた糸「サーイシーン」を手首に巻いていただいて式がお開きになれば、誰もが晴れ晴れすっきりと、満ち足りた顔でした。

そんな、ゆったりと象の歩みのように鷹揚な式の運びと受容と祈りの形に、私は自分も含めてこの会に集まった人たちの人間臭い図が寒山拾得や五百羅漢の姿のように見えてならなかったのです。
ある矛盾に気付いてくすくす笑うのも、内なる痛みを越えようと懸命に祈ることも、少し自分というものが不安になってあたりの様子をうかがってしまうのも、それはあなたであって、また私であり、更に大切な誰かでもある。
故に、全てが何か見えざる大きなもの、大きな流れの中に等しくゆったりとあって、それぞれがその流れの形を慎ましく、しかし自由に率直に体現し、少しでもより良くあろうと祈るような、タイの人たちの心のありよう、居ずまいが、何とも立派で、また愛おしくてならなく思えたのでした。
きっと、うっかり夢と現を行き来してしまったあのお坊さまも、次に来る時には見事なお経を披露してくださるでしょう。実際、いらした方の中には前回(昨年)はお経も読めず声も出なかったのに、今回はすっかり唱和の中心になっていた方がいましたから。(Asae Hanaoka)