2013年7月27日土曜日

緑に埋もれるように  Gone to Earth

以前、モロッコのカスバ街道沿いのオアシスで仕事をしていた頃のことです。毎年そこへ通う度に古い建物が溶けるように土に帰って行く様子を目の当たりにしていました。
というのは、かの地の家は土の家だったからです。
土の家の在り方には人の暮らしの原型、人と自然との関わりとはどんなものかを多く考えさせられ、それがモロッコでの私の仕事の推進力になっていたようにも思います。

土の家は資材はごく単純で、土と植物だけ。天井や建物の角などには木の柱や葦を入れ、地元の粘り気のある土に藁を刻んで水で練り、枠に入れてから天日干しした日干しレンガを積み上げて壁を作り、外側は漆喰や泥で化粧し、ベルベル風の文様などを型押しして仕上げます。それは小さな家もどんな大きな邸宅でも同じです。

そんな風に土と植物だけで作られているので、小さな城塞と呼びたくなるような2~100年程前の大きな建物(実際は何世代もの家族が暮らし、折々に建て増ししたり修理をして生き物のように育ててきたといっても良い)でさえも、長年の風雨に少しずつ溶け、荒れ野や畑の中で土へと還って行くのを、この辺りを歩いていると見かけたものでした。
そうした建物の中でお気に入りの場所を見つけた私は、明け方や夕方、そこにそっと忍びこみ、かつての中庭や祈りの部屋で、慌ただしい仕事からのがれて、少しだけ一人で空を眺めたり、頭の中でかつての家の様子が次第に風化して行く様子を早回しにしてみたりする時間を楽しんでいたのです。
そこも、このところの年を追う毎に異常になる天候に溶ける速度が早まっていて、私がかの地を訪れた最後の都市には倒壊寸前となり、持ち主によって立ち入り禁止になってしまいました。きっともう今ではあらかた土に還って微かに痕跡が残るだけでしょう。

人間は生命体である以上自然の一部の筈ですが、奇妙な事に家や村、道路など人工的な空間をシェルターのように造り出し、そこで生きるという矛盾した存在です。それでもかの地では、人がその場を去れば跡形もなくその人工的な空間は消え、土へ自然へと還って行くのです。
当時、毎日のように沢山の薔薇を蒸留釜で熱処理し、命を奪うようにもの作りをし(とはいえ、その薔薇も羊の餌になり羊は肉や肥料を生産していたので、決して無駄ではなかったのですが)、まるで薔薇の死神のように自分を思っていた私はには、この大地に溶けて行く家はえも言われぬ許しを覚える場所であり、土の家という仕組みを作ったベルベル族の、シンプルで謙虚な、美しい生き方を尊敬し、憧れにも近い思いさえ抱くきっかけになりました。

実際、この土の家は見た目の美しさや終わり際ばかりでなく、生活の場としても非常に優れています。
長く人が暮らして来た土の家は、長年の壁の塗り直しなどで壁の厚さは60センチ以上あり、おかげで断熱防音に優れ、静かなうえに冬は暖かく夏は涼しく、湿度も一定に保たれます。
また、粘土には匂いを吸着する働きがあるので空気は清浄に保たれるのですが、おかげで大抵のベルベル族の家には屋敷の一部に牛や羊を飼う部屋があるにもかかわらず、獣達の悪臭が一切しません。
もし欠点を上げるならば、雨には弱くこまめな修理が必要な事でしょうが、そもそも原料は土と藁なので、無尽蔵にあるし、再利用も可能。村の職人は定期的に仕事を得られます。なのでこれは欠点ではなく環境的にも経済的な美点かもしれません。
そんな目には美しく自然の摂理にも適い、地域との結びつきの要にもなる家やそこでの人々の暮らしぶりに私はすっかり惚れ込み、滞在が長くなり村の人たちとも親しくなった頃には、もしできるならばここに小さな土の家を建て、彼等と一緒に畑をしながら暮らしてみたい、羊や薔薇や麦、イチジクや葡萄に囲まれて、まるでコーランか聖書の雅歌の世界のように、と思うようになっていた程でした。

しかし。
モロッコはヨーロッパにも近いため、ツーリズムに携わる人や出稼ぎも多い国でもあります。そのためヨーロッパ的な生活に憧れる人が多いのも事実。こうした仕事で一財産をつくり、コンクリートで溶けない家を建てるのがステイタスになっている一面もあります。
確かにコンクリートは溶けませんが、夏は暑く、冬は底冷えがするのは身体に悪いものです。そして、土ならば少し歪みのある四角いキューブ状の家の形もどこかまろやかで美味しそうにさえ思えるのに、素材が変わると歪みは単なる不格好となり、内装の派手に塗られたペンキの壁や、造花のデコレーションもどこか雑で寒々しさが漂うものになります。溶けない、傷つかない、ということで建てた瞬間から住む人の心と建物の間に距離ができてしまうのでしょうか。
 ある大きな家にお邪魔した時、私は期待していた土の部屋ではなく、真新しいコンクリートの部屋に案内されました。そこは家族がよかれと思ってコンクリートで増築した部屋で、足を痛めた家長のおじいさんの居室でもあったのですが、当のおじいさんは「儂は前の土の部屋の方があったかくて落ち着くし、冷えないから、足も痛まなくていいのだがねぇ。。」と二人きりになった時に、そっと私にこぼしたのでした。
いずれにせよ、このコンクリートの家はおじいさんを悩ませるように住人を差し置くばかりでなく、強い陽射しの荒々しい気候の国ではみるみる痛々しいガレキになり土に還る事はないですし、外見と管理の手抜き以外に、果たしてどのような効用があるのでしょうか?観光という面から見ても、土の家を「真似た」コンクリートの家を見に来る旅行者はそう多くないとも思えます。

振り返って、いま私達が仕事をし、暮らしているタイのチェンマイはどうでしょう。
やはりこちらも、出来合いの建材を使った洋風の建て売り住宅が花盛りです。トラックで運ばれる合板やプラスティックの建材を見ていると、見た目こそ洒落ているけれど、モロッコにもまして強い陽射しと雨に見舞われるこの国で、このおもちゃのような家が10年耐えられるのか?と、不安になります。
雨季ともなればこの国では、豊かな水と優しい温気に植物達は、目にもその早さが見えそうな勢いで枝葉を伸ばし、少し気を抜けば人も道も埋もれてしまいそうになります。
実際、築数十余年の我が家は、傍らに立つ熱帯マグノリアやガジュマルの木の根に排水管や土台を突き破られてしまいました。また、かつての通貨危機やリーマンショックの影響で、開発途中で資金が尽きて放棄された建て売り住宅の造成地も、いつの間にか蔓草が絡み付き豆科の樹々が育ち、沼地や野原に戻りかけています。まるでどんなに建造物を作っても、みるみる植物達の波に押しつぶされ、呑み込まれてしまうようです。

そこに、ある風景が重なります。
少し前、日本のとある地方都市へ行ったときに見かけた植物に侵食され崩れかけた廃工場です。
どこかタルコフスキーの「ストーカー」を思い出させる風景に誘われ、中を覗くとそこは緑の氾濫。
若木が天井を突き破り、ツタが窓枠を歪めて室内まで入り込み、苔達はコンクリートさえも腐らせ、また、何か劇薬が入っていたとおぼしい腐食しかけの鉄のタンクの中は、木賊に似た水生植物が生い茂る不思議な中庭と化していました。

モロッコ、タイ、日本、これら緑に埋もれて行く痛々しい人工物の滅びの光景の重なりを思い出すなかでふと。
人が滅んでしまったって、植物はこんな風に何ごとも無かったかのように生い茂っていくのかもしれない。もうそれでいいのかもしれない。
そういえば、スリーマイル原発の人には致死量の放射線量の壊れたプラントの水中には、バクテリアやプランクトンが繁殖していたという話があったではないだろうか?
また、福島の原発の冷水システムが鼠のせいで止まった事故があったけれど、それは「鼠ごとき」ではなく、そもそも「鼠にさえ」私たち人間は抗えないのが真実ではないか?
本来私達は自然の一部であり、生命であり、知恵以外は力を持たない丸裸の猿なのだから、旺盛な野生の生命力をどうして抑える事などできるだろうか。
むしろ、自然に負けるように、雨に溶けように、緑に覆われ侵食されるに、そのような生き方や方法はないものか?あたかもあの懐かしい、生一本の土の家が末には溶けて土に還るように。
そしてもっと、人は植物達や他の小さな生命達にこの世界を返してしまってもいいのではないか?
そんな、虚無的な、滅びの誘惑が私の中にこみ上げて来ます。

「ねえ、今日は庭で空芯菜摘んで帰ろうか?」
「うーん、毛虫が怖いから、私はどうしようかなぁ」
「今年は変だねえ、あんなにラムヤイに虫がでてさ」
「他所で消毒してもさ、ウチの会社はそういう事をしないでしょ?だから安心だって、蝶も逃げてくるんだよ」
「だから、あたしらが食べる空芯菜も美味しくて安心なんだけれどね」
「ジャックさんがサナギを見たっていうから、毛虫も後少しでいなくなるわよ」
「じゃあ、こんどは、チョウチョの乱舞ね。キレイでしょうね!あとちょっとの辛抱よ」

一人机でどんよりと妄想の渦中の私の耳に、お昼が近くなって少しひもじいスタッフ達の声。
おしゃべりしても、良く働く手も目配りも止まらないのは全く見事なもの。
そんな彼女達の日々の楽しみの会話に、乱暴で幼稚な滅びの誘惑は少しだけ遠のきます。

そういえば、ノイちゃんは良くこの形はなんと不思議で美しいことかと、木の実や草の葉を愛おしそうにほお擦りしていたっけ。。ジャックさんは、今年庭に大発生している毛虫に怖いけれど、あと少しで蝶になるのだから。薬は可哀想だし、誰にも危険だから嫌だもの。。と困ったように笑い、スタッフの皆はだれもそれに反対しなかったな。。バーンさんは古い家の木材を再利用して素敵な木造の家や家具を作るし、ガスより火で焚いた餅米の方が美味しいから・・と、それらの端材を大切そうに庭に集めるのだった。。あの子がラムヤイや花の木に絡み付いたカラスウリのツルをそっとそのままにしているのは、若葉が美味しいスープになるからだし、メオさんは、まだまだタイの植物の事を知らない私に、あれはお祭りに、これは薬に。。。と教えてくれるよね。。
私の傍にいる人たち、それぞれの様子を丁寧に見れば、まさに緑の横溢の隙間にそっと間借りし、それらを愛おしみ惜しんで暮らしている人たちが、まだまだ大勢居ることが思い出されます。

優しい仕事仲間達の顔やありようを思いながら、それでも人が作るものの中に土に帰れないものがあまりに多い事への痛みは内側で続きます。

もしも人間の消える時がやって来たとしても、むしろ世界は全き自然を取り戻し、奪いすぎるものも無く、きっとそれぞれが力強く生き生きとしている気がします。
でも誰がそれを見て、愛したり讃えたりするでしょうか?
それとも、もとからそんな事、不要なのでしょうか?
もし、自然の一部でありながらその外の存在ともなり、今や鬼子のようでもある私たち人間にできる事がまだあるとしたら、本来の自分達の出自である自然を讃え、そこから糧も居場所も得ている事に畏れ、感謝し、それを振る舞いや言葉とすることに尽きるのではないか?

その上で、ここにある以上はどう生きようか?と私は思い、願います。
多くを自然から得て、そこから生活に必要なある形、物を作り出して生業としている私達ですが、願わくば、作る過程でも使う過程でも、それが末には土に還り、緑に覆われるものでありますように。
また、この日々の営為が足りる以上を望むことはなく、なぜなら、そこで培われる生を受けるとは、この地上での一瞬の間借りであり、この身が去ったその場所には、そしてもうその時には名前も形も失って私ではなくなった私の上にも、変わらず緑の横溢があって欲しいから。

そのようなもの作り/生き方をしたい、のどかなスタッフ達の交わしあいやころころと丸いものが転がるような美しく甘いタイ語の響きを聞きながらそんな風に思うのでした。(Asae Hanaoka)


2013年7月10日水曜日

ランパーンの鶏碗(その2) chicken bowl 02

チキンボウルを詳細に見てみましょう。地元のスーパーなどで売られている最近の安価なものは別として、基本的な器の形状は丸型ではなく、側面のところどころに凸凹があります。最初は掌に収まった際の指掛かりの良さから付けられた凹凸にも見えますが(もちろんそれもありますが)、よく見るとそれはどこのメーカーのものも同様で、規則的な凹凸であり、正確に八角形(オクタゴン)の形状をしています。これはチキンボウル自体に備わった共通の形状であり要件のように思えます。
八角は方位を表しており、角度計算なしに一本のひもで正確に描ける形であり、古来中国では完成された宇宙の形を表すとして最も安定した図象構造とされています。

次に器に描かれた図案を見てみましょう。チキンボウルの名のとおり、鶏が描かれています。これは赤と黒の顔料で鮮やかに描かれており、鶏冠と喉袋から雄鶏であることがわかります。
そして植物が二種描かれています。ひとつは赤もしくはピンク色の牡丹の花。そしてもうひとつは緑を基調とした南国ならではバナナの木。この三種が基本です。
昔から中国の書画、吉祥図にも度々登場する図案に孔雀をモチーフにしたものがありますが、これは実際の絵画では牡丹と併せて描かれることの多い図案です。「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言われるように、牡丹は美しい女性の象徴です。これは孔雀を陽とし男性の、そして牡丹を陰とし女性の象徴としてそれぞれ表したもので、交歓、和合の意を持ち、新婚の夫婦の部屋などに飾られることも多い絵柄です。チキンボウルの鶏は孔雀=男性の象徴であることがわかります。

鶏と牡丹が男女の象徴だとしたら、もうひとつの植物、バナナは何を表すのでしょうか? 手軽で安価なトロピカルフルーツの代表であり、かつては病人しか口に出来なかった特別な高級フルーツの時代もあったこのバナナですが、日本へは江戸時代に、南国の島ではなく中国から伝わって来た果物です。他のふたつが男女の象徴だとしても、バナナを陽物のメタファとしたのではあまりに安易、デリカシーに欠けてしまいます。ましてやこの手の話はごく最近のことです。バスター・キートンが『ハイ・サイン』(1921年)で披露したバナナの皮で滑るというギャグの発案より、ずっと時代は下るはずです。その後チャーリー・チャップリンなどの映画監督が多用し一般化したのちの下ネタ、ギャグが先にありきの陽物バナナと考えられます。木を見て森を見ないように、葡萄を粒で見ないように、バナナの姿は通常、単体(1本)では認識しません。ファルスではなく掌、指、つまり産地での姿形状は豊かに実った房の形で認識されます。

男根からバナナに話を戻します。バナナはバショウ科バショウ属の植物です。「バショウ」とは芭蕉のこと、チキンボウルに描かれたバナナを芭蕉と見れば、また違った見え方をしてきます。芭蕉の葉は裂け易く、儚いものの象徴とされます。日本ではその花の散り際の儚さから、桜は特別な感情を持って人々に受け入れられていますが、芭蕉の葉の儚さが誘う感情もまたこれと同様です。芭蕉は様々な物語の中にも現れます。『湖海新聞夷堅続志』など、昔の中国の説話には芭蕉の精が人に化ける怪異譚がありますし、読経中の僧のもとに芭蕉の精が女の姿で現れ「非情の(魂のない)草木(植物)も成仏できるか」と尋ねる日本の謡曲『芭蕉』はこれを題材にしています。
ここに現れる芭蕉は男(鶏)でもなく女(牡丹)でもなく、また同じ儚い美しさを競う桜と芭蕉とを分けるのは、花と草の区別であり、しかかし花と草(女性)の人生を分けるのは美醜だけに関わりません。男でも女でもなく、草木であっても花ではない存在、それがチキンボウルに描かれた3つめのモチーフ、バナナです。実際バナナの図案には実も花もなく、描かれているのは緑の葉(草)だけです。

ちなみに「芭蕉」とは、その昔マレー半島から中国にバナナが伝えられた際に、ギニア語で指を意味する言葉「banana」の音に対して当て字されたもの。なので中国人が芭蕉と新しい当て字を作っていなければ、松尾芭蕉は「松尾ばなな」となっていた可能性があります。
とはいえランパーンは中国ではなくタイです。タイでは「簡単なこと」や「ありふれたこと」を意味する言葉として「クルアイ・クルアイ」(「kluay kluay」「バナナ・バナナ」の意)という言い回しがありますから、案外深い意味など全くなく、手近にあった植物を手っ取り早く図案の賑やかしに使っただけ、という可能性もあります。
いずれにしても、こうした三種三様の、様々な読み方の誘惑を備えたファンタジーがチキンボウルの図案だということです。(Jiro Ohashi)

*図版はdhanabadee社のサイト http://www.dhanabadee.com/product_heritage.php より

2013年7月4日木曜日

ランパーンの鶏碗(その1) chicken bowl 01

こちらでは屋台系の飲食店等でヌードルやお粥を注文すると、どこもたいてい同じデザインの器に入って出てきます。直径20センチほどのやや小さく肉厚の碗で、白またはベージュの地に鶏の絵が描かれたカラフルな器「チキンボウル」です。タイの人々には"Koey OUA"と呼ばれ、使われているシチュエイションからも分かるように、ごく一般的で安価な庶民の器です。長年の使用により、貫入(ひび)にスープやスパイスの色素が入り込んで強調されたり、縁が欠けたりしているのもまた味があります。
このチキンボウル、観光客向けの土産物屋はもちろんですが、市内の雑貨屋や地元のスーパーマーケットでもよく売られており、探せば5個で100バーツなどもざらにあります。チェンマイから南に車で2時間ほど行ったところの街ランパーンがその生産地です。

ランパーンという街は、チェンマイほど多くの観光客が訪れる場所でもないためか、昔の北タイ様式の建物や街並も観光地化を免れる形で多くが残るとても落ち着いた風情の街です。ここは良質の陶土(ホワイトセラミック/カオリナイト鉱)の産地でもあり、陶器の生産が盛んな場所です。
現在の鶏碗(チキンボウル)が作られるようになった経緯としては様々謂れはあるようですが、60年代にこの地に移り住んだ中国人たちによって始められたというのは間違いないようです。

ランパーンには数多くの陶器会社がありますが、その中でも最大手と言われるINDRA OUTLET(インドラ・アウトレット)社のWebサイト http://www.indraoutlet.com/eng-chickenbowl.html によると、チキンボウルは1930年代に中国広東省で生まれたとされています。当時は薪を燃料としたドラゴン・キリンと呼ばれる登り窯(龍窯)による伝統的な技法で焼かれ、絵師による熟練を要する技で絵付けが行われていたとのこと。その後多くの中国人移民たちによってタイに伝わり、こちらでは1957年にランパーンのRuam Samukkeeに初めてのセラミック工房が作られた。そしてこれが最初のチキンボウルメーカーであると記載されています。
その後ガス窯による技術革新と、短い時間で手早く描ける絵付職人の存在、そして生産コストを減らすための図案パターンの簡略化などにより、チキンボウルをはじめとした陶器の生産はランパーンの製造業の中心として発展したということです。これが所謂「正史」です。

また別のストーリーを主張するところもあります。ランパーンに数ある中堅陶器工房のひとつDHANABADEE(ダナバディ)http://www.dhanabadee.com/about_En.php
は、デザイン性の高い極めて優れたモダンセラミックを作っています。そしてここは自らがチキンボウル製造のオリジナルであると主張しており、工房の敷地内には「ランパーン・セラミックミュージアム」という博物館を建て、一般に公開しています。先日ここを見学した際に説明についてくれたのがこの工房の創業者の娘さんでした。

彼女の説明によると、ダナバディ社の創業者Mr.E(Chin Simyu)は1950年代半ばに、この地で初めてカオリナイト鉱床を発見し、のちにランパーン県で最初のセラミック工場を設立(これがインドラ社の言うRuam Samukkee工房かどうかは不明)。65年には現在の会社の元となった登り窯を初めて開き、ここでチキンボウルを作り始めたとのこと。詳しい時系列は不明ですが、中国人であるMr.Eはどこかのタイミングでこちらに渡ってきて60年代半ばに大きなアクションを起こしたのは事実のようです。
こちらに渡って来た理由は? と問うと「政治的な理由です」との答え。窯を開いた翌66年が文化大革命の開始の年ですから、これに先立って逃れて来たのは間違いないでしょう。中国の文化大革命では、紅衛兵らによって旧思想、旧文化の否定と破壊が叫ばれました。多くの文化人、芸術家らが難を蒙ったことは歴史が伝えていますが、その中には職人や技術者たちも含まれました。陶磁器や金魚、月餅など古い歴史を持つ商品の生産や販売までが「旧文化」として否定され、職人や関係者たちは帝国主義者として吊るし上げられたといいます。

北タイのランパーンに逃れて来たMr.Eは、自ら発見した良質な陶土(カオリナイト鉱床)と、この地に開いた龍窯(ドラゴン・キリン/Dragon kiln)で陶磁器の制作を始めます。そこで作られたのがチキンボウルでした。
それぞれ主張はあるでしょうし、誰もが自らのルーツの正当性を信じオリジナルを名乗りたいもの。ある種の強迫神経症は中心の不在と不安です。
ここでは彼らの本家本舗争いよりも、中国がそのルーツであること、60年代の文化大革命がひとつの経緯であるらしいこと、そしてそこで否定されたものが陶磁器などの旧文化であり、老荘思想、タオイズムであったことに注目したいと思います。(Jiro Ohashi)

*写真は市内の古道具屋で見つけたオールド・チキンボウル

2013年7月3日水曜日

陶器の町へ行く ceramic town

先週末、チェンマイから100km程南へ下ったところにある小さな街、ランパーンへ出かけてきました。
私たちは時折この街を訪れますが、それはアルガンクリームの器を作ってもらっているセラミック工場があるからです。

そもそも、香合や蓋椀が好きで自分で作るクリームやパウダーの器にしていたり、とある青空骨董市でみかけた陶器の器が魅力的だったりがきっかけでしたが、私たちが作っているアルガンクリームの器は、プラスティックでもガラスでもなく、今のご時世ではとても珍しい陶製です。
ちなみにランパーンはチキンボウルと呼ばれるタイの屋台で良く見かける鶏柄のどんぶり茶碗の産地として有名な、タイでも一番の窯業の街。チェンマイも青磁のセラドンで有名ですが、こんなに身近に焼き物の街があるとしたら、やはりこれは何か作りたくなってしまうというのもまた、ものづくりに携わる身としては当然、渡りに舟のことでした。
しかし実際に作って見ると、パッケージに限らず大量生産品の器の世界で、陶器が徐々に廃れてガラス、そしてプラスティックが台頭してきた理由が実によくわかる、剣呑な道のりにもなったのでした。

なぜ剣呑なのか? といえば、それは陶器の完成度とは「ギャンブル」だから。

窯業は火の強さ、陶土の性質、釉薬の発色など、どれだけ均一化を図ろうとしても、思うようにならない領域が極めて沢山あり、手工業的な要素が強い産業なのです。
あたかも映画などで、真面目一徹な職人や巨匠が「ちがう!これじゃない!」と、出来上がった器を叩き割るシーンに象徴されるように、同じ器を作っても、良く言えば、どれひとつとして同じではなく個性があります。悪く言えば、完璧に均一な製品ができない。つまりは再現性が無い、今の大量生産/消費の市場には合致するのがとても難しい世界なのです。

実際、IKEAなどのファッショナブルな量販店の器もこの地域で作られていますが、言われなければわからない程の歪みなどが理由で引き取られなかったものが地元の市場で売られていることもあります。また、チェンマイ特産のセラドンもその仲間である、青磁も本気でのめり込むと身代を潰すといわれる魔境が待ち構えているとか。
そこまでではないものの、私たちの器の品質管理にもさまざまな難しさが潜んでいて、まるで毎回新製品と対面しているかのような悩ましさがあり、工場から器の納品がある度にアルガンクリームチームは器の品質のスタンダードづくりに四苦八苦しています。

そんな四苦八苦をするくせに、この頓狂な事を止めないのはチェンマイの私たちの会社くらいであり、何よりそれに付き合ってくれる人たちが居るおかげです。
「苦しい事もあるけれど、それが自分も物もより良くなることだから」
「工夫するのは、面白いから」
セラミック工場の人たちに、そんな風に言ってもらえるのはなんとありがたく、素敵なことでしょう。

こんなことが可能なのは、それぞれの会社が互いの全体が見渡せる規模であり、おかげでそれぞれの顔が見えるコミュニケーションを深める事ができるから。
また、小さいが故にさまざまな冒険もし易いといった、経済や社会的な要素も大きいからでしょうか?
また、強硬なコンプライアンスではなく、それもありだね、面白いかもしれない、と多様性を受容してくれるやわらかな気風があるおかげでもありそうです。
まるで先祖帰りのような事をしているだけれど、こんな交わしあいや挑戦からきっと、今までとは違うものづくりの将来の姿が見えてくるに違いありません。

ミーティングの席で、少し厳しい相談を無事調整しきったのを見極めて、製造マネージャーのジャックさんが不良品率報告とその解決方法の説明を始めると、セラミック工場のいつもの面々は、お互いに気持がまた近づいた事が感じられる穏やかな表情で頼もしく頷きます。

写真の女性は、私たちの器の歪み検品(歪みがあると、樹脂の器がぴったり締まりません)と、口金の成形をしてくれる女性。ここに勤めて20年のベテラン。
彼女曰く「ここの上司はとても優しく私たちの事を気遣ってくれるし、私自身、この仕事にやりがいと誇りを感じています」とのこと。
タイではしばしば、社員の離職率の高さが問題になりますが、こんな会社もあるのです。彼女に限らず、この会社で会う顔は、気がつけば10年近く殆どが変わっていません。
幸い、我が社も仕事を辞める人は家の事情などでやむを得ずという人が数年に一度ある程度。私たちも、自分たちの会社のことを彼女のように話してくれるスタッフが現れるよう、より良い会社づくりをしていきたいものです。

ちなみに、この工場は、広大な体育館のような構造ですが、見渡す限り、働いているのは女性ばかり
出会った男性と言えば、いつも優しげな笑みを浮かべている社長さんと出入りの管理をしているガードマン氏だけでした。(Asae Hanaoka)

2013年7月1日月曜日

免疫と蚊 immunity system and mosquito sound

こちらに来て2ヵ月ほど経ったころ、身体が様々なサインを出すようになりました。それまでは気が張っていたからか、多少の無理をしても特に疲れも感じなければ、違和感もありませんでした。

最初に現れたのは「痒み」です。
こちらは水や緑がたっぷりあり、リスやトカゲや鳥たちといった小動物も多くいます。猫や犬、水牛やヤギ、そして象といった人に飼われている大きな動物も沢山いいます。当然小さな虫たちも沢山います。特に蚊には注意が必要です。タイ北部の都市とはいえ、ここは亜熱帯の地。蚊はさまざまな病原菌を媒介します。特にデング熱には注意が必要で、これによって死にかけた人間も身近にいます(さいわい九死に一生を得て、現在は元気でいます)。
庭で作業などしていると必ず蚊に刺されますから、気温40℃近くの日中でも長袖長ズボンは欠かせません。また黒い服もダメです。蚊を呼び寄せます。芝刈りなどの作業の前には虫除けスプレーを噴霧します。家の全ての窓やドアには網戸が付けられています。とにかくここは蚊に対する対策は必須の場所ですが、それでも蚊には刺されます。

体質が違うのか、食べるものが違うのか、それとも単に私の血が美味しいのか、とにかく蚊にはよく刺されます。しかしタイの人たちが痒そうにポリポリ掻いているところはあまり見ませんから、彼らはあまり蚊に刺されないのか(いや、そんなはずはない)と羨ましく思います。
刺されるとそこがぷっくりと膨れ上がり、見た目も気分的にもそして実際も、非常に強い痒みを感じます。痛いのも痺れるのも嫌ですが、しかしそれは快感へと移行することさえ可能な紙一重の辛さ、やはり不可逆的に圧倒的に辛いのは「痒み」なのかもしれません。

最初は蚊だと思っていました。しかし市販の痒み止めの薬を縫ってもしばらく時間を置いても、腫れも痒みもいっこうに収まりません。また、どうやら発疹は拡がっているように見えました。その拡がり方は面ではなく線状に、しかもリンパの流れに沿って拡がっているように見えます。痒みは次第に軽い痛みを感じるようにもなっています。
そういえば先日はリンピン(日本食など輸入食材の豊富な外国人向けスーパーマーケット)でサーモンを買って食べました。フルーツも毎日食べており、今が旬のマンゴーも沢山食べています。


以前にも同じようなことがありました。7〜8年前のことですが、当時も全身に痒みを感じ、最初はダニか何かが部屋にいると思い、バルサンを焚いてみたものの収まらず、皮膚科を受診しました。医師には「昨日食べたものを言って下さい」といわれ「コンビニでおにぎりを買って食べた」というと「その具材は?」と訊く。変なこと訊くなあ、と思いつつ「シャケのおにぎり」というとピンポンという顔をして「それです。ヘルペス、帯状疱疹ですね」との診断。
シャケっていってもほんの少しですよ。と言っても「そのほんの少しが反応しているんですよ」とのこと。「最近疲れていませんか?」と言われ、「過労とストレスから免疫力が低下して帯状疱疹を発症したのです」という。言われてみれば、たしかにその時はゲーム関係のプロジェクトにかかり切りで、けっこう大きな予算とスタッフを回しながら疲労困憊していた時期でもありました。
受診した皮膚科クリニックでは、免疫力を上げるための太い注射を打たれ、飲み薬と塗り薬を処方され、「また来なさい」とのことで、しばらく通院しては注射を打たれ続けたことをよく覚えています。

というわけで、自分では全く意識しなかった過労とストレスからくる免疫力の低下によるヘルペスか、と思い至りました。最初は蚊かとも思いましたが、可聴領域の外から来るモスキート・サウンドのごとく、自分では意識することなくいつのまにか攻撃に晒されていたようです。
サーモン(シャケ)には以前にも反応したし、マンゴーはうるし科の植物です。実際これに反応の出る人も多くいます。自分では気がつかなかった分「ああ、身体が正直にサインを出してきたか」と思いました。
免疫力が低下すると、普段ならなんの問題もない食べ物などにも敏感に反応が出ます。アレルギー反応を誘発します。「ああ、私は疲れているんだ。強いストレスに晒されていたんだ」と思い至り、素直に病院へ行きました。チェンマイ市内で一番大きく、設備も整っているといわれるチェンマイ・ラム病院です。ここには日本語の通訳スタッフもおり、難しい医療用語も丁寧に説明してもらうことができます。

「ヘルペスではないかと思う。以前にも同じようなことがあった。思い当たる事もある。サーモンも食べた。マンゴーも食べた。こちらに来たばかりで環境が大きく変わった。気候も違う、食べ物も違う。言葉も不自由だ」。と自説を展開し、ヘルペスの可能性を得々と述べたものの、検査ののち診察した医師はあっけなく「接触性のかぶれですね。あと汗疹かなあ」とのこと。少なくともヘルペスでは全くないとのこと。
過労でもなくストレスでもなく、ましてや免疫力の低下などでもないという。実際、飲み薬と痒み止めの薬を貰って塗ったら治りました。(Jiro Ohashi)