八角は方位を表しており、角度計算なしに一本のひもで正確に描ける形であり、古来中国では完成された宇宙の形を表すとして最も安定した図象構造とされています。
次に器に描かれた図案を見てみましょう。チキンボウルの名のとおり、鶏が描かれています。これは赤と黒の顔料で鮮やかに描かれており、鶏冠と喉袋から雄鶏であることがわかります。
そして植物が二種描かれています。ひとつは赤もしくはピンク色の牡丹の花。そしてもうひとつは緑を基調とした南国ならではバナナの木。この三種が基本です。
昔から中国の書画、吉祥図にも度々登場する図案に孔雀をモチーフにしたものがありますが、これは実際の絵画では牡丹と併せて描かれることの多い図案です。「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言われるように、牡丹は美しい女性の象徴です。これは孔雀を陽とし男性の、そして牡丹を陰とし女性の象徴としてそれぞれ表したもので、交歓、和合の意を持ち、新婚の夫婦の部屋などに飾られることも多い絵柄です。チキンボウルの鶏は孔雀=男性の象徴であることがわかります。
鶏と牡丹が男女の象徴だとしたら、もうひとつの植物、バナナは何を表すのでしょうか? 手軽で安価なトロピカルフルーツの代表であり、かつては病人しか口に出来なかった特別な高級フルーツの時代もあったこのバナナですが、日本へは江戸時代に、南国の島ではなく中国から伝わって来た果物です。他のふたつが男女の象徴だとしても、バナナを陽物のメタファとしたのではあまりに安易、デリカシーに欠けてしまいます。ましてやこの手の話はごく最近のことです。バスター・キートンが『ハイ・サイン』(1921年)で披露したバナナの皮で滑るというギャグの発案より、ずっと時代は下るはずです。その後チャーリー・チャップリンなどの映画監督が多用し一般化したのちの下ネタ、ギャグが先にありきの陽物バナナと考えられます。木を見て森を見ないように、葡萄を粒で見ないように、バナナの姿は通常、単体(1本)では認識しません。ファルスではなく掌、指、つまり産地での姿形状は豊かに実った房の形で認識されます。
男根からバナナに話を戻します。バナナはバショウ科バショウ属の植物です。「バショウ」とは芭蕉のこと、チキンボウルに描かれたバナナを芭蕉と見れば、また違った見え方をしてきます。芭蕉の葉は裂け易く、儚いものの象徴とされます。日本ではその花の散り際の儚さから、桜は特別な感情を持って人々に受け入れられていますが、芭蕉の葉の儚さが誘う感情もまたこれと同様です。芭蕉は様々な物語の中にも現れます。『湖海新聞夷堅続志』など、昔の中国の説話には芭蕉の精が人に化ける怪異譚がありますし、読経中の僧のもとに芭蕉の精が女の姿で現れ「非情の(魂のない)草木(植物)も成仏できるか」と尋ねる日本の謡曲『芭蕉』はこれを題材にしています。
ここに現れる芭蕉は男(鶏)でもなく女(牡丹)でもなく、また同じ儚い美しさを競う桜と芭蕉とを分けるのは、花と草の区別であり、しかかし花と草(女性)の人生を分けるのは美醜だけに関わりません。男でも女でもなく、草木であっても花ではない存在、それがチキンボウルに描かれた3つめのモチーフ、バナナです。実際バナナの図案には実も花もなく、描かれているのは緑の葉(草)だけです。
ちなみに「芭蕉」とは、その昔マレー半島から中国にバナナが伝えられた際に、ギニア語で指を意味する言葉「banana」の音に対して当て字されたもの。なので中国人が芭蕉と新しい当て字を作っていなければ、松尾芭蕉は「松尾ばなな」となっていた可能性があります。
とはいえランパーンは中国ではなくタイです。タイでは「簡単なこと」や「ありふれたこと」を意味する言葉として「クルアイ・クルアイ」(「kluay kluay」「バナナ・バナナ」の意)という言い回しがありますから、案外深い意味など全くなく、手近にあった植物を手っ取り早く図案の賑やかしに使っただけ、という可能性もあります。
いずれにしても、こうした三種三様の、様々な読み方の誘惑を備えたファンタジーがチキンボウルの図案だということです。(Jiro Ohashi)
*図版はdhanabadee社のサイト http://www.dhanabadee.com/product_heritage.php より