2014年12月18日木曜日

土の中から(その2):美術品と貨幣 from underground 02

そんな古いものがいったい何処から湧いて出るのかといえば、それは土の中からやってきます・・・。
今から数百年前の話です。現在の国境線が確定するまでの北タイは、小さな藩国が群雄割拠する地域で、いってみれば戦国時代が常態化したような場所でした。そうした中でさまざまな王朝が開かれては周囲を制し、制した後には滅亡し、隣国に攻め込み攻め入られてきました。他国に攻め入られれば、その地域の領民は奴隷として使役されますから人々はたまったものではありません。身ひとつで逃げるわけですが、その際、最低限の食料と衣類は持って逃げるにしても、そのほかの財産は捨て置くしかありません。お金は墓場まで持って行けないとはよく言いますが、財産は自分が逃げる際に持って行けない以上、貴重な陶器は(墓場ではないですが)土に埋めます。
貴重な財を得る交易品、文化力、技術力の象徴である窯も閉じられ、これも埋められます。こうして12世紀にこの地に勢力を誇ったクメール朝から、タイ人がはっきりと出現した13世紀スコタイ王朝、そしてラオス、ビルマ(ミャンマー)との抗争に明け暮れた18世紀のチェンマイ王国の時代まで、さまざまな古陶器が土の中から出てきます。そういったわけで、こちらではじゃんじゃん出るわけです。土の中からお宝が。
*(註:文化財保護区域外、もしくはミャンマー領内など原則ルールに則って行われているとのこと)

日本の場合、骨董、アンティークの類の多くはお蔵から出たものです。いわゆる伝世品というやつで、先祖代々大切に所蔵されてきたお宝が、時代と共に価値観も変わり、代変わりを機にその趣味も興味もない息子娘により、名家のお蔵から古美術商の手に渡る。近代以降の話です。
もしくは「私は新しいものが好きだ」という子が、親との趣味嗜好の違いから骨董を売り払い、現代美術のギャラリーかなんかで趣味のものを贖います(それも親のお金ですが)。現代の話です。
しかしそんな名家旧家が今の日本にごろごろあるわけもなく、単に成金が、もとい新興富裕層が事業に失敗して趣味のコレクションを売りに出す。とか、とにかくもろもろの事情を抱えた財の循環によって古美術マーケットに出るケースが多いようです。
古美術品は基本的にその数を補充できませんし、過去に遡って新たに製造もできませんから、絶対数はすでに概ね決まっています。割れたり欠けたりの粗忽者の欠損で、もしくは価値を解さぬ人の手で廃棄されるなどして、じわじわ減ってゆくほうが自然でしょう。資源のない国と一緒です。でもその少ない資源の希少性がまた価値を生んでいます。

そこへいくと東南アジアでは、旧家のお蔵や富裕層のコレクション、そして古美術商といったクローズド・サーキットを超えて、さながら産油国のごとく品物は湧きます。これは文字通りの「掘り出し物」ですが、それがどこから掘り出されるかといえば、土の中から、河の中から、そして海の中から現れます。土の中から遺跡や墳墓が発掘され、河揚がりとして交易の集積所跡がさらわれ、海揚がりとして交易品をぎっしり積んだ難破船が引き揚げられる。発掘だの難破船の財宝だのというとカリブの海賊かエジプトの盗掘団かと、いきなりファンタジーの世界に飛ばされますが、しかしそんなものです。
ちなみに日本語の「掘り出し物」とは、コレクターや古美術商などによるマーケットで、自然と形成されてきた売買相場を、大きく外れて価格が下回ったり、売り手が大幅な値引きに応じて入手した品のことです。なので自身の知識と品物を見る目がよほど売り手を上回らなければ、そうそう出てくるものではありません。だから本当の意味での「掘り出し物」はほとんど存在しません。あったとしたら、それは贋物を疑ったほうがいい。しかしこちらでいう「掘り出し物」は、その言葉どおり土や河や海から掘り出される(揚げられる)ものたちです。

スコタイ、スワンカロークの鉄絵陶や青磁、サンカンペーンの平皿双魚紋、クメールの動物を象った黒褐釉、カロンの大胆な図案の鉄釉皿や椀や 瓶、安南青花や紅安南などなど、細々ではありますが4〜500年以上前の古陶が今も掘り出されマーケットに供給されています。
いやいや、国の文化財保護政策があるでしょう。今タイでは保護研究目的以外の発掘は固く禁じられているはずでは? という声もあるでしょう。たしかにそうです。表向きはそうです。しかしここはマイペンライの国タイです。アジアの人々の営みでそんな杓子定規でキチキチものごとは進みません。では日本はどうでしょう? パチンコという遊戯場では射幸心を煽ってはならんと出玉の換金はきつくご法度、景品はあくまでボールペンやライターの石が一番人気だそうではないですか。これは善悪の問題ではありません。白か黒か、そうした西欧の二元論では全くないです。清濁併せ呑んだ知恵、アジア的な柔軟さです。良いか悪いかは別問題。

土の中から古陶が湧いて出ると言いましたが、世界のアンティーク・マーケットに出ている東南アジア古陶には、かなりの数の贋作が混じっているのもまた事実。それらも含めて本歌贋物、玉石混交、諸々込み込み湧いて出るというのが正確なところでしょうか。国公立の博物館等でも「これはないだろう」という物もたまにガラスケースに入れられて展示されてますし、実際に北タイローカルの小さな郷土博物館(H博物館)では「これはまずいでしょう」(はっきり言えば贋物です)というものもキャプション入りで展示されていました。

こうした贋物も含めて大変興味深いもののひとつに、ミャンマー(旧ビルマ)の白濁釉緑彩陶があります。最近のインテリアショップやスーパーマーケットなどで売られているカラフルなものは別として、骨董の陶器、焼き物というと大抵は藍色の染付をイメージすると思います。もう少し華やかなものとしては赤絵(鉄絵)などもあるかもしれません。いずれにしても焼き物の絵柄の色味はある程度決まっています。
ミャンマーの白濁釉緑彩陶はというと、その名のとおり白地に緑色の顔料で彩られた特異な陶器です。緑色といえば木々の葉に代表される「自然イメージの代表格」ですが、また反面、緑色の肌、緑色の髪、緑色の日の光、などなど非現実的な色味の代表でもあります。
そんなミュータントのような見たことのない緑色の焼き物が、タイとミャンマーの国境付近、メソート、ターク近郊のの山中で発見されたというのは文化考古研究、古陶研究者の間で大きなニュースとなりました。1984年のことです。

ここから発見発掘された緑彩陶器は、動物や神獣、蓮や唐草、幾何学 紋などが伸びやかな筆致で配され、東の中国(世界の陶磁器の中心地です)の影響からは距離を置き、むしろ 西のペルシャ、中近東の影響が窺える自由で大胆な器でした。こんなものが東アジアから発見されたことは今だかつて無く、発見された後に、ミャンマー産だとほぼ特定はされたものの、肝心の窯場は未だ特定できないなど謎も多く、現在もまだ研究はあまり進んでいません。ミャンマーは当時(今も)軍事政権下にあるため、海外の調査隊等が入っての本格的調査発掘ができないでいます。
これらの器は、発見された場所や状況から15世紀〜18世紀に掛けてのものとされましたが、発掘に参加した日本人研究者のその後の調査で、釉薬に錫を含む鉛釉を使用している事が判明。これはイスラム陶器、マヨリカ陶器、デルフト陶器などでは見られますが、東南アジアの陶器ではこれが唯一の例です。釉薬の放射線年代測定でも15〜18世紀と、発掘状況と同様の結果が得られたことで、制作年代はほぼ特定されました。
この最初の調査では約300個の緑彩陶が発掘され、そのうち200個が日本に、残り100個は欧米に渡ったとされています。

その後、この謎のミャンマー緑彩陶は古美術マーケットに流れ、発見のニュースと共に世界のコレクターたちを魅了します。特に日本は当時バブル経済の只中にあり、金に糸目を付けずに買い漁るコレクターも居たことから、マーケットでの価格は高騰します。ミャンマー緑彩の大皿が一枚数百万円で取引されるなど、タイの古美術商に対しては「ミャンマー緑彩の出物があれば値段はいくらでも出すから(日本に)送ってくれ」というオーダーも多かったとか。そうした取引価格の根拠とされたのが、発見の際の300個という希少性。つまり日本に流れた200個と欧米市場に流れた100個という「発行紙幣」ならぬ価値の保証です。

発掘発見、そして検証を日本人研究者が行ったこともあるかも知れませんが、最初に発見された約300個の緑彩陶器の写真図録などを大切に押し戴いて、これのみが正統である。これのみが正真正銘の本歌(真物)であるとして、他を一切認めない80年代ミャンマー緑彩陶原理主義は、日本において結構根強いです。また実際80年代後半〜90年代以降には、かなりの数の質の悪い贋物が作られたこともあり、その主張を強化してきた経緯もあります。
それはそうでしょう。ダイナミックで大胆な筆致といえば聞こえはいいですが、技巧に依らないある種素朴な絵柄の緑の器が数十万、数百万円で飛ぶように売れるとすれば、現地の人にしてみれば「こんなものでいいなら俺も作れるよ」と、誰だって見よう見まねでやるでしょう。別に騙そうとかいうわけではなく、何でこんなものをありがたがって大金を払うのか? 心底理解できないのだと思います。で、買ってくれる人が(主に日本人が)いるのなら幾らでも作りましょう。といって大量の贋物がマーケットに出る。それも結構質の低いものが出る。
なぜならそれはあまりに唐突に、これまで見たことのないもの(緑彩陶器)が目の前に現れたために、それが本物だろうが贋物だろうが、そもそも比較検証できる人がいない。それを扱う古美術商も、それを求めるコレクターも、「ああ。これがあの幻のミャンマー緑彩陶か!」となるのも無理からぬことでしょう。実際、欧米で最も古い歴史を誇る美術品オークションハウス「クリスティーズ」でも、限りなく贋物の疑念を払拭できないミャンマー緑彩の出品を目にします。

とはいえ、これらはあくまで日本や欧米での話。更には古美術マーケットの、更に更にいえばで東南アジア古陶磁という極めて狭い世界での話です。しかし実際に北タイで暮らしてみると、そしてこちらの古美術店や美術館、博物館を回ってみると、あの「80年代ミャンマー緑彩陶原理主義」がいかに現実離れしたある種のファンタジーであるかがわかります。チェンマイのアンティークショップへ行けば、この絵付けは緑の油性マジックで描いたのではないか?というくらい、どう見ても模造品という下手の緑彩を見ることもあります。また日本や欧米で編まれた図録には出てこない、見事な図柄の緑彩大皿や椀を見つけることもあります。模造品はそれなりにリーズナブルな値段ですし、仮に不相応に(強気に)高い場合は値切りにも応じます。しかし見た目も見事な「掘り出し物」は、安易な値段は絶対に付けません。こちらの人は直に掘り出したところを知っていますから確たる自信もあるわけです。贋物もあれば本物もある。

初期に入手したコレクター諸氏の、発行紙幣(初回発掘品300 個)の価値を守りたい、通貨膨張としてのインフレーションは断固阻止したいという気持ちもわからないでも無いですが、普通に考えてそれは無いです。こうした特徴的な完成されたフォーマットの陶器が、わずか数百個のみ作って他は一切無いなどということはありません。どういった王朝で、どういった目的で、そしてどういった窯場と陶工たちによって作られたのかは謎ですが、少なくとも数百年の間に何万何十万、もしくはそれ以上の膨大な緑彩陶器が作り続けられたと考えるのが自然です。
というわけで、ミャンマー白濁釉緑彩陶は今も掘り出されてはマーケットに現れています。古美術品の価値、器の価値とその魅力、現れては消えた歴史や出自など、この東南アジアは陶磁器ひとつ取っても、ものづくりの魅力に堪えません。そんな場所で、私たちも新しい価値と新しい美しさを目指して製品づくりに励んでいます。(Jiro Ohashi)

2014年12月1日月曜日

土の中から(その1) from underground 01

わけあって陶器に関する勉強をしています。最初は何気なく観光客向けの土産物としてのセラドン焼きから入ったのですが、セラドンにも様々な窯があり、いくつかの製造メーカーがあり、その作りにもかなりの違いがあるようでした。かつての高級陶器セラドンも肉厚で鈍重なものが増え、デザインも安易で垢抜けず、その特徴的な翡翠を思わせる美しく淡いグリーンも 、いつの間にか品のない青や赤みの掛かった不要なバリエーションが増えていました。
そうして失望していた矢先、食器棚の奥から10年ほど前に買ったセラドンの椀を発見します。その椀はシンプルな美しいフォルムで、装飾は一切なく、なにより薄く繊細な作りは指や掌、唇にあたった感触も格別です。今の鈍重な土産物セラドンとは全くの別物でした。あまりの作りの差に愕然としつつ、少しずつ少しずつ厚さや色味が変化しても意外と気がつかず、名称としては同じ製品でありながら、それでもいつのまにか別物になってしまうデザインの劣化を目の当たりにしたものでした。

この10年前の器の高台に記されたメーカー名を頼りに、その会社の所在を調べ工房を訪れました(それは意外にも私たちの会社のすぐ近くにありました)。併設されたショップでこのセラドンメーカーの製品を改めて見てみると、それは家の食器棚に仕舞われていたのと同じもの、いわゆるかつてのセラドンでした。肉厚で鈍重な土産物とは違った、姿形も美しい、エメラルドグリーンの釉薬のガラス質の表面に、細かい貫入が入った、チェンマイ陶器の名声を高めたかつての高級陶器セラドンです。頭では理解していても、作り手により窯により、こうまで違う陶器の実際を図らずも目の当たりにし、これはチェンマイ周辺の北タイの陶器に改めて興味が向かうきっかけとなりました。

チェンマイは優れた伝統工芸の街として知られています。織物、銀細工、花細工。竹細工に家具、木工などなど。あくまで陶器もその中のひとつでもあるのですが、たまたまきっかけとして、この地のものづくりの本質に触れる入口として、陶器の存在があったということです。
その後、こちらならではの器に注意して目を向けるようになり、屋台や地元の食堂などで使われるチキンボウル(ランパーンの鶏碗 http://fromchiangmai.blogspot.com/2013/07/1chicken-bowl-01.html)に惹かれ、その歴史を調べるなどしていると、当然その先は北タイの陶器の歴史に突き当たります。大量のレコード、CD、本、雑誌。電子楽器にラジカセ、オーディオ、各種ガジェットもろもろのコレクションに溺れて来た身としては、触れてはならない大変危険な領域です。

陶器の歴史などといえば、書籍やネットの情報を頼りに調べたところでたかが知れています。当然現物に学ばねばならず、それに触れる必要があります。しかしこれらは博物館や美術館のガラスケースの中に収められた貴重な文化財か、もしくは希少なアンティークです。そうでなければ各種の展覧会図録や写真集で間接的に確認するよりありません。
古美術における陶器といえば、中国陶磁をその頂点に、朝鮮半島、そして日本の古陶磁が主流です。そんななかで東南アジアの古陶磁はといえば、中国の影響を色濃く受けたベトナム(安南)、そしてチェンマイ周辺の北タイの古陶磁が際立っています。12世紀のクメールから13〜15世紀のスコタイ王朝をその絶頂期に、北タイ周辺の固有の美意識と大胆なデザイン、そして繊細で細密な手技、それに当時世界の最先端であった中国から伝わった窯と生産技術が合わさって、ちょっと他には類を見ないオリジナリティ溢れるタイの陶器が花開きました。

日本には室町〜戦国期より伝わり、時の権力者や茶人に愛されたスワンカローク焼(いわゆる宗胡禄/スンコロク)などスコタイの各窯、カロン、サンカンペーン、パーン、ハリプンチャイ、そして現カンボジアのクメール等々、それぞれの窯が強力な個性で特色豊かな器を大量に生み出しました。当時の陶器は単に食器という枠を超え、その国の技術力、国力を示すものでもありました。穀物など農産物(および肉や魚といった食料品)と、衣服としての布(織物)は財力を示したでしょうが、それに加えて陶器は更に、権力者の使う贅を尽くした日用品、神事に用いられる神聖な道具、そして宝物、副葬品といった具合に特別の意味合いも強かったでしょう。
実際スコタイはタイ族による初の統一王朝でしたし、13世紀後半の三代目の王、ラームカムヘーン王の時代には国力も隆盛を極め、文化芸術も絶頂であったといいます。王は初のタイ文字を定め、中国との交易を行い、この時代に中国の陶工たちが招聘されたと伝わります(当時の最先端技術です)。タイ初の産業として陶器の輸出が行われたのもこの時期です。こうした器(スワンカローク焼き)はチャオプラヤー河を下りシャム湾に出て貿易船に積まれ、アジア各地を廻り遠く日本までやって来て宗胡禄となり、戦国の世の茶人たちに愛でられた、ということです。いろいろ繋がってます。

タイの古陶器の面白さのひとつは「評価の固まらない」柔らかさであると思います。日本の古美術骨董の世界では年代や場所(窯)、品質や状態はもちろんですが、その品の伝来、所持、書付や時代箱の有無など、明確な鑑定基準なるものがあります。ところがタイの陶器の場合はそうした面倒くさいもの(特に否定はしませんが)はほとんど存在しません。一般的なタイ人(特に北タイの庶民)の感覚からすると古いものはピー(精霊)が宿っているから好まない、もしくはそれは畏れるものであって、きちんと接しなければならない。少なくとも蒐集して愛でるものではない。という感覚があるように思います。実際、タイ人でアンティークの陶器を好んで蒐集する人は非常に少ないですし(ごく一部の好事家か研究者)、いてもそれは中華系の富裕層かファラン(欧米系の外国人)、そして日本人です。
日本の骨董(アンティーク)の感覚からすると、江戸や明治のものは間違いなく立派な骨董ですし、下手をすれば大正や昭和初期のものも骨董品として扱われる場合もあるでしょう。しかしこちらでは、100年やそこらでは単なる古道具、全くアンティークの範疇に入れてもらえません。アンティークと称するならば「やはり500年くらいは経っていてもらわないとね」という具合に、そもそもタイムスケールがまるで違うのです。

で、どういうことになるかといえば、古美術店の店頭には12世紀から15〜6世紀のものがごろごろ並ぶわけです。「そこは骨董天国か!」と勇む方もあるかもしれませんが、古美術、アンティークに対する感覚が日本などとは全く違うので、そうしたお店自体が極めて少ないのも事実です。とはいえ、こちらで古美術、古陶器といえばこの時代のものです。日本でいう鎌倉、室町、安土桃山の時代のものが主流です。500年も600年も前のものというと一瞬たじろいでしまいますが、でもそういうことです。
北タイ周辺の古陶器は王朝の興亡、戦乱などにより、18世紀にはほぼすべての窯がいったん絶えていますから、おのずと18世紀以前のもの、江戸中期以前のものになるわけです。
そんな古いものがいったい何処から湧いて出るのかといえば・・・。それは土の中からやって来ます。(Jiro Ohashi)