ヘンプ100%の布は、山岳少数民族のモン族の女性が地機で織っているもので、本来は彼等の民族衣装のためにあるものです。しかし近年、彼等の暮らしが町の経済と結びついてきたことで、かつて家族のために手織りで誂えられた民族衣装の生地は、今では大半が市販の工業製品の布に殆ど変わりつつあります。
いつまでも肌に馴染まず、染め直しもできない化繊の民族衣装には、それでも伝統的な稠密な意匠の刺繍が施されています。しかし糸は、派手な蛍光色に染められたもの。モン族の女性たちが、市場などで布を売ったり仲間とおしゃべ
りしながらも、手は止まる事なく刺繍を続けている様子を見ると、こうした、温もりがなく粗雑な素材が、彼女たちの丁寧な手仕事を浪費し、どこか寂しいものにしているように感じます。
なかには、彼等自身がこういう糸や布の色や光沢を好むのだから、これが本来の民族衣装の姿だと辛口に言う人も居ますが、そうでしょうか?
例えば、かつて服を染めるのに使われていた染料の藍には、匂いによって虫や蛇、そして魔を除けるという意味があったように、文様だけでなく、その素材にも様々な意味が込められていました。民族衣装を着るという事は、織り手が積み重ねた時間や、染料やその植物に由来する自然の力や信仰をも着る事、一着の衣装はあたかも民族の歴史の書物のようでもあったのです。だとすれば、市場で買い求めた素材で作られた衣装は見栄えこそ色鮮やかですが、ただ、属性を示し、肌を隠すだけの空疎なものになってしまったかのようです。
さらに、宗教や生活様式の変化により、普段は民族衣装ではなく、洋服で暮らす人も増えたため(そういえば、私たちがヘンプ袋の仕事を頼んでいるルカさんも普段は洋服姿です)、ヘンプ布は自分たちの生活必需品から、町の暮らしには欠かせない現金収入の源として、土産物として売られるようになった事、物価の上昇も相まって、価格が年々高くなる一方です。
そこに追い打ちをかけるように、織り手は高齢化し、地機を腰でひっぱり続けながら細かい作業を根気づよく続けなくてはならない大変な仕事は後継者も少ないため、織り目は粗くなったり、まちまちだったり、価格の高騰の一方で作る現場では質より量を求めた結果の品質低下も目立ちます。おかげで、私たちも製品のためのヘンプ布を調達するのが年々難しく、大切に思う反面、悩みも深くなっています。
このように上等な手織りのヘンプ布の入手困難は様々な要因が絡み合った結果ですが、最大の原因は、やはり自分や大切な家族が身に纏うという、生活に直結した需要が無くなり、ものづくりを粗雑にさせてしまったことではないでしょうか。
もちろん、これは彼等山岳民族に限ったことではなく、私たち誰もに言えそうです。
思い起こせば日本でも、数十年前まで家の周辺には洋裁屋さんがあって、布こそ市販品であったかもしれませんが、様々な語らいの結果として、母の晴れ着のワンピースや父の背広が出来、私たちのスカートやシャツも、子供たちを思い浮かべながら重ねられた母の時間の賜物であり、それは大切に長く着られていなかったでしょうか。服があっという間に痛んで、あっという間に流行遅れになるようになったのは何時からでしょうか?
とはいえ、ヘンプ布の面持ちは未だ辛うじて美しく、ヘンプという素材への興味は尽きませんし、手織りの布という存在には色々な問いが生まれ、その問いに応えてみたいという思いも溢れてきます。
それにヘンプはもちろんですが、織物の伝統全体がそもそも北タイの文化の魅力の一つであり、少し視野を広げてみれば、山岳民族の布に限らず郊外で今も手織りの布を丁寧に作り続けているタイ人たちも居ます。
タイ人も、特に北タイでは、タイユワン、タイルーなどのタイ族の民族的なグループ毎に独自の言葉や織り文様を持ち、ヘンプのほか、絹や綿で素晴らしい布を織ったり染めたりますが、安く大量生産された布や衣類の影響でその仕事の継続は難しくなっています。王室の支援プロジェクトや、金曜日に民族衣装を着て過ごす運動など、伝統的な手織り布の文化を持続させる運動も盛んではありますが、それでも全体を取り巻く環境は厳しいものです。
それならば、アメニティではチェンマイ、北タイ全体、またそこにある布の世界全体に目を向けて、タイ族の織る布を選ぶ事も、北タイの布の世界を伝え、応援する事になるのではないかと考え、私たちのアメニティの包み布(ハンドタオル)は、チェンマイ周辺の織り手の方が作るものから選ぼうという事になりました。(Asae Hanaoka)