2013年10月31日木曜日

夜の工場と鉄の淑女たち night factory and satree lec

私たちの工場。
といっても使う道具は、スタッフたちの身体よりも大きかったり、その仕組みが使い手にブラックボックス化した工業団地のロボットや、壮大で大規模な機械システムなどはありません。
パッケージの口を閉じるシーラーや電気秤が私たちの「機械」です。会社開設当初、外資で輸出専門の企業と聞き、これは将来資産として課税対象にできるお宝の山ではないか? と大きな機械などの資産を期待して視察に来た役人が、「それで工場はどこか?」と、作業スペースの真ん中に立って宣い、「いやここなのです」。「機械がないではないか」。「機械は使いません。頭と手が私たちの大切な道具なのです」というどこかちぐはぐな会話をした。それが、私たちの「工場」です。
なので、実際はアトリエ、工場と書いても「こうば」と読むのが相応しく、かつその風情は殆ど厨房。そんな場所が私たちの仕事、もの作りの舞台なのです。
時間をかけて鍛えた想像力や経験、勘を一杯に詰め込んだ頭脳と手が、私たちスタッフにしか持ち得ない、他にはあり得ない素晴らしい道具であり財産。ほんとうに「身体が資本」の職場なのです。それを駆使して日々、ものづくりに私たちは励んでいます。

そのように、私たちのスタッフの仕事は、五感をフルに生かし、集中しつづける作業です。
就業時間は午前9時から夕方5時。途中に2回の休憩と昼食の時間を挟んでも、決して短い時間ではありません。
それぞれの健康や生活を尊重しつつ、経験を十全に活かしてもらうよう、仕事の仕方や環境を守ることはとても大切です。

そんな折も折、取引先より、余りに急で余りに大量の発注がありました。
そのガスールの量は生半可な事ではありません。確かに注文はありがたいものですが、こちらは丁度、ガスール原材料のモロッコからの到着を待っている最中で、倉庫の原料在庫は底を尽きかけていました。運良くあと数日でそれがバンコクに着くことになっていましたから、原材料がなくて、発注をお断りしなくてはならないという最悪の事態は避けられました。
とはいえ、その唐突さはもちろんのこと、発注量と日程という数字の厳しさは常軌を逸した域のもの。でもその一方で、私たちの製品に興味を持ってくださった新しい取引先の方たちにも応えて差し上げたいという気持もあります。
私たちとジャックさんは何度も日程や製造できる最大限の量を検討し、1日の生産量の上限ぎりぎりの、かなり難しい数字を出しました。しかも、それはタイの労働法で定めるぎりぎりの残業をしての数。
その日程を見て「これでは、もう現場がしょんぼりしてしまうかもしれない」。と私はなんだか苦しくなってしまいました。
そんな事はできるならばしたくありません。なぜなら、殆どのスタッフが母親であり主婦であり、家族との時間をとても大切にしています。
そして、あまりに長時間にわたる作業は、大切な視力などの身体感覚や気力を摩滅させ、ともすれば品質にだって影響を与える事になるからです。
目先の利益のために、大切な技術も社員たちも、お客様の信頼も私たちは失いたくはありません。個人を尊重し、その人生を大切にするような持続的な仕事がしたいのです。

とはいえ、その家族や会社の持続のためには収益も必要。どこまでを受容するか、最大公約数を出したものの、私たちはまだ悩んでいました。すると製造リーダーのジャックさんが言います。
「大丈夫です。皆の事を思いながら、考えた数字です。皆、あなたたちを信頼しています。それに仕事があるのは良い事です。私たち、皆がんばります!」
うわぁ……! なんてこの人は真っ直ぐで健気なんだろう。
眦を決して、きりっと断言するジャックさん。
少し涙腺がゆるみ、その凛々しさにくらくらしている私たちに、「それにお給料が増えるのが嫌な人はいないもん。あ、でも、残業にリフレッシュは大切だから、晩ご飯。休日出勤の時は、おやつのアイスクリームもお願いしますね!」
と、交渉上手のジャックさんは、悪戯っぽく付け加えたのでした。語尾に「うふ・いひ!」という、少し怖い笑い声が聞こえたのは気のせいではなかったように思います。

そんなわけで、先週の休日出勤以来、私たちは毎日残業です。
タイとはいえ、秋分を過ぎればどんどん日暮れは早くなり、夕方5時半頃には太陽はチェンマイの街の西にある尊いお寺にある山、ドイ・ステープに隠れます。
日が暮れると私たちの工場のある地域は、小さな村の家の灯りがぽつぽつあるだけで、真っ暗です。
その中で私たちは、ただ一つ残された光の箱の中で作業をひたすら続けますが、そんな場所に居ると普段よりも深く互いは近しく思え、結束力が高まるよう。そのせいかそれぞれの仕事ぶりは一層冴えてゆきます。
そうやって、目標の数をこなすと、さっと掃除をし、同じ方角のメンバーでチームを作り、暗い夜道をバイクの一団(こちらでは、バイクが主な交通手段です)になってそれぞれが家路へとつきます。

これもあと少しで終わります。
リーダーたちはあと少し! と、皆を鼓舞し、それに誰もが威勢よく応え、頼もしいこと限りなしです。
とはいえ、すべてを取り仕切るジャックさんは、もともと色白な顔が一層白いですし、作業の合間に肩をぐるりとまわす仕種をするスタッフも増えて来ました。

このように、休日返上で頑張ってくれている鉄の意志のスタッフたち。
早く我らが鉄の淑女たちに休息のひと時をあげなくては、なにか特別なありがとう!をしたいと思いつつ、なんとなく、目前にひかえた慰労パーティのプレゼント。「ハズレは無しよ!」という囁きがあちこちから聞こえ、そのハズレ無しのハードルがどんどん高くなって来ている気がしてなりません。

ところで、「鉄の淑女」という言葉ですが、これは数年前に日本でも上映され、それなりにヒットした男の女子達のバレーボールチームの映画「アタック・ナンバーハーフ」の原題(Iron Ladies/Satree lec)です。ちなみに、このバレーボールチームはかつて実在し、またチェンマイと、我が社のクリームの器がやってくる陶器の町、ランパーンはこの映画の舞台です。(A.H.)

2013年10月22日火曜日

パーティはプレゼントの山 a gift for you

来月上旬にスタッフたちの慰労を兼ねたパーティをやる事に。少し早いロイクラトーン・パーティです。とはいえマーケットは縮小し、人件費をはじめもろもろの部材費も高騰しているこの折です。経理会計はじめすべてのスタッフたちは、日頃からコスト意識を共有し、涙ぐましい努力をしています。
このパーティは私たちからの日頃の感謝の気持ちですから、費用は会社からではなく私たちの私費で賄います。
しかし、そうなると我々は歯止めが利きません。こと経費であれば「それはもったいない」「あれで十分でしょう」「まだまだ使えます」と少しでも節約して慎ましく仕上げることでしょう(実際、つい先日まで私は自分の机も簡易な作業台で、椅子は折畳み椅子を使っていました)。そうした足かせが今回はないのです!

書籍や雑誌、CDやDVD、広告、ポスターなどさまざまものを企画し編集する際も、そしてさまざまなパーティやイベントを行う際にも、まずは制作費の確保から始めるのは当然です。実際にそうしてきました。制作費が十分にあればそれでよし、問題ありません。
しかし厄介なことに僅かな制作費しかない場合もあります。その際も「これをやれば確実に完成度が上がる」もしくは「あの人(具体的な顔を思い浮かべて)は絶対に喜ぶ、驚く、感激する」という確証がある場合は実に厄介です。だってそれをやれば確実にあの人が喜ぶのです。完成度が上がるんです。そして素人は往々にして「それ」をやってしまいます。くれぐれもやってはいけないことです。予め決められた制約の中で最大の成果を出すのがまっとうであり、それがプロの仕事です。
「自腹」とよく言いますが、この言葉もおかしなものです。「自腹を切る」などという物騒な言葉(表現)が他の国の言語にありますか? その昔、人々が和服で生活していた時代、財布は帯に留めて仕舞っていため、懐から取り出すことになります。その時の右手の所作が、ちょうど切腹と同じ動きをすることから、自らのお金で出費することを「自腹を切る」と慣用的に言うようになったと言われます。いずれにしても切腹という行為に通じる言葉です。どちらも、どこか心情的に賞賛される行為であるところも疑問を感じるところです。

賞賛などされるべきではないのです。切腹も、自腹も。
数年前、あるアーティストの展覧会をやった時のことです。彼はグラフィックデザイナーですが、その展覧会はメディアアート系のわりあい大きな賞を受賞した作品も出品するため、そうした系列のギャラリーで行うことになりました。私はその展覧会のディレクターでした。設備の整った都内のアートスペースを皮切りに、国内のいくつかのギャラリーを巡回しましたが、そんな中、ある地方の廃校を利用したアート施設での設営下見の時です。呼んでくれたのはいいですが、いかんせん予算が少ない。巡回展と称して「ウチでもやって下さい」というケースは往々にしてこうしたパターンが多い気がします。作品も含めてすでに出来上がったものを、ウチでも展示しませんか?というコンビニエンスな提案です。

その展示室は照明設備が貧弱でした。展示プランではコンビニエンスストアのように無駄に明るい蛍光灯。壁だけでなく光量でも眩しく空間を満たすホワイトキューブ、といったイメージでした。とはいえ中途半端な蛍光灯ほど貧弱な光はありません。そこで照明器具の追加を試みましたが肝心の予算がないと言います。たいした額ではないはずですが、その予算がないと言います。その辺は施設の保有する設備の中でやってほしいとのこと。電源の容量だって足りません。それならば壁のコンセントから別に電源を取り、別回路で持込み(照明)機材を仕込むしかありません。(八方手を尽くしても)予算がないのならば仕方ありません。自分のギャランティの中から必要機材を調達するのみです……。

……だから、それをやっちゃいけないのです。規制のなかで、与えられた条件のなかで最高のパフォーマンスを引き出すことが本来やるべきことです。
とはいえ現在、私の東京の家にはたくさんの機材が溢れています。複数台のハロゲンランプ(500w)、10数本のK&Mのマイクスタンド、10発をくだらないBOSEのスピーカー。SHUREのマイクが1ダース、そのほか全長数百メートルにおよぶ各種ケーブル類や電源タップ、エフェクターやミキサーなどなど、およそ普通に生活するうえで、なんの利便性も有用性もないものたちで溢れています。工具箱は木工系、金属系、電気系と併せて5〜6箱あります。加えて本やCD、レコードといった定番資料のほか、置物、剥製、民芸品などに埋もれています。
私は編集者、ディレクターとして長らく仕事をし、それで対価を得てきたという意味ではプロといえるでしょうが、実際はプロフェッショナルの皮を被ったアマチュアですので、「これは」と思える案件に対しては闇雲に私財(ギャランティ)を注ぎ込む悪癖があります。

とはいえ遅まきながら思慮も分別もわきまえてきた昨今、拠点もこちらに移し、堅実に仕事に励んでいる矢先です。まさかこちらでハロゲンランプ買ったり電源リール買ったりはしないでしょう。日本からアンプやスピーカーやらのサウンドシステムを持ち込むこともないはずです。
ですが。日頃から「ここまでやるか」というくらいに頑張ってくれている、会社のスタッフたちを慰労しようと企画したパーティです。しかしサウンドシステムはなぜかもう持ち込んでありました(税関で「これは何だ?」と呼び止められました)。これは私に何かせよということではないでしょうか。

こちらでは何か催しがあると、参加者皆で予算を決めてプレゼントを持ち寄り、くじ引きで交換しあうという慣習があります。たいていはお菓子であったりジュースの詰合わせであったりと、本当にささやかなものなのですが、これがやたらと盛り上がります。ならば今回、私たちが皆の分のプレゼントを用意し、くじ引きプレゼント大会をやったらよいのではないか? しかも予算は会社の経費ではありません。私たちの自由裁量でプレゼントが選べるのです。

私たちはスタッフひとりひとりの顔を想像しながら、さまざまなものを買いました。大して余裕があるわけでもありませんが、それでも立場上スタッフの皆さんよりは多くサラリーを貰っています。ここで還元すべきでしょう。液晶テレビ、電子レンジ、アイロン、トースター、鍋セットにフライパンセット。スタンドミラーに大きなくまのヌイグルミ。ストールに手袋、掛け時計に置き時計……。
私たちのスタッフは9割以上が女性で、そのほとんどは既婚者です。プレゼントのセレクトも自然と主婦目線になります。A.H.は自分が大切にしてきた未使用の香水もいくつか放出しています。彼女はこうしたお金の使い方に異を唱えるどころか、気質としては双子のように同じ価値観を共有するためか、一緒になって選びます。そうこうするうち「はずれ」なしのすべて「あたり」状態でプレゼントの山が築かれてゆきました。当日までの保管場所としてプレゼントを積んであるミーティングルームのテーブルは、夢のショーウィンドウのように華やかです。皆がそれぞれお目当てのプレゼントを心に決めている様子です。

「マァ〜イコォウェ〜ブ(電子レンジ)♪ マァ〜イコォ、ウェ〜ブ♪」と終業時にはミュージカル映画のワンシーンのように歌いながら踊りながら、楽しそうに家路を急ぐ彼女たち。お目当てのプレゼントが「当たりますように」「私のもとへ来ますように」と敬虔な祈りを捧げるシスターのように(実際は皆仏教徒です)手を合わせる彼女たちを見ていると、かなり奮発、散財しましたが、これはこれで良かったじゃないでしょうか。当日用にハロゲンランプと電源リールも買いましたし。(J.O.)

2013年10月18日金曜日

おもにパッケージデザインのこと  think of our design

こちらで生活していると、過剰な情報から適度に距離を置く事ができるためか、商品のデザインに関しても、その見え方感じ方が日本(東京)にいた頃とは変わって来るのを感じます。ここで言うデザインとはおもにパッケージデザインのことです。

商品を買う際には当然値段とスペック(性能はもちろん、大きさ重さ、色や手触り、素材や産地、新鮮さや味なども全てスペック)は確認します。しかし確認するにしても限度があります。
家電やオーディオといった類いは、値段と性能が頼りですから、デザインもまた商品自体に備わった性能のひとつに数えます。外箱のデザインなど誰も拘りません。
市場やスーパーで買う食品は、それが生のものであればあるほど、商品自体に備わった(生の)属性がストレートに商品の価値を表します。野菜やフルーツ、肉や魚の類いです。これらにデザインは基本的に入り込みません。
また生のものは、なにも自然のものだけを表すわけではありません。屋台のヌードルも豚肉の串焼きも、カオマンガイ(茹で鶏ご飯)やコンデンスミルクのたっぷり入ったアイスコーヒーも同じです。これらは値段の他の要素としては、産地や生産者(お店)といったブランドが幅を利かせる世界です。デザインの入る余地はまだそれほど多くはありません。
対して服はデザインの塊とも言えますが、これは衣食住の中でも特別です。寒さを防ぎ身体を保護するだけが衣服ではないように、それは権力を表し財力を表し、性差を表し官能を表現します。その人の属性を表し教養を表し、コードのわきまえを宣言します。
これらは素材や縫製の確かさと、それを生み出すブランドの物語によって支えられるのですが、服自体がデザインの塊だとしたら、ではデザインとはいったいどれほど強力なものでしょう?

ブランドは企画して作り出すものではありませんし、またデザインの手法でこしらえるでもありません。そのもの自体に本来備わった属性から生まれるものです。そういうわけで私たちは、新しいブランドを作るにあたっては、企画戦略会議から入るのではなく、ロゴやパッケージから入るのでもなく、まず生の製品自体を作る事から始めました。
なんとかそれが、少しずつ形を成してきましたので、これからデザインのことを集中的に考えてゆこうと思っています。私たちはデザインに対して最大限の敬意を払いますし、その大切さを知っているつもりです。
これからの作業では、とにかく信頼できるデザイナーと仕事をすることです。意中のデザイナーはすでにいます。来月東京で打ち合わせをします。来年中には完成させられればと思っています。(J.O.)