そんな、会社の宝物のようなジャックさんですが、豹変する日が月に一度だけあります。
その月の最後の金曜日、私とディレクター氏がランチをスタッフにご馳走する日です。
そもそもは、かつて海外出張が無闇に多かった私が、その留守を守ってくれた皆へのお礼と不在のペナルティとして始めたことです。しかし時折やってくる嵐のような忙しさへの慰労の意味も込めて続けているうちに、いつの間にか月に一度の恒例行事となり、気付けば3年も続いてしまいました。
こうなると、この振る舞い、スタッフ皆のお弁当を持ってくる日の予定や、月のお昼代の予算の中にきちんと勘定されてしまい、「もう止めますよ?」とはなかなか言えなくなっているのも事実です。
そのうえ私が一人で振る舞っていた時はお昼のお弁当のみでしたが、ディレクター氏が新たに加わって最初のランチご馳走の日の折、
「あなたも3時のおやつをご馳走してくださいませんか? きっと皆、もっとがんばっちゃいますよ? うふふ」
というジャックさんの皆への思いやりに溢れた笑顔と声に、氏がうっかりほだされたのもいけませんでした。
以来、
「ソンクラーンの季節は暑いですね!」
「今日は出荷日で皆汗だくでがんばりました」
「偶然今日は○○ちゃんのお誕生日なんです」
などなど。
毎回、千夜一夜物語のシェヘラザードの如くこちらの気持を動かすのが上手なジャックさんです。
おやつもすっかり毎月恒例になっているではありませんか!
タイでは地方から出てきて家族を支える健気な女の子(ただし夜の蝶)についほだされて、気がつけば丸裸、文無しになっていた。。。などという自業自得の外国人男性の話を良く耳にします。
もし毎月のこれが高級ブランドのアクセサリーやバッグだったら、私たちも今頃丸裸でしょうけれど、幸い1食15バーツの氷菓や30から35バーツのお弁当です。そして皆、ほんの一日主婦の仕事が軽くなり、昼休みやおやつの時間をゆったり過ごせ、その分仕事に打ち込んでくれています。
汗だくの出荷も、お誕生日のお祝い(タイではお誕生日の日は、本人がそれぞれ小さなお菓子などを皆に振る舞うのがこちら風のお祝いです。「大枚」をはたいて、お誕生日の人自身も皆に幸いを振る舞っているのです)も、夜の蝶の夢物語とともに雲散霧消するわけではなく、目の前にある真実です。同じ職場に居るものとして分かち合う大切な時間です。
ならば、月々の出費だって決して無駄ではないと、私たちも半可通のタンブン精神を発揮してついついお弁当(おやつのアイスクリーム付き)を振る舞ってしまうのです。
先週の金曜日もジャックさんが、やってきました。
「今日もご飯いいですか?」
「はいはい。いいですよ?」
「それが実は。。。困りました」
ジャックさんがしおらしげに顔をしかめます。
「何? どうしたの?」
「とうとう、お弁当屋さんが値上がりしてしまって一人40バーツなんです・・」
それは知っています。
私たちが購入する段ボールやそれを留めるテープ、パッケージの印刷代、クリームの容器。あらゆるものがここ2〜3年で、政府の政策の影響を被って異様な値上がりをしました。方々の屋台も同様です。いつもの屋台の値が今まで上がらなかった方が不思議なのです。
「おや、でも仕方ないですねえ。。。屋台の人も困っちゃうものね」
「でしょう。みんなもお昼が大変になったねって言ってます」
「うーん。。。うん、わかった。大丈夫。出しましょう! ジャックさん。」
「それで、今月はスタッフがまた増えましたから全員で1,600バーツです。うふふふ。」
「はい。。。ん?・・えっ!? ・・えええっ〜!」
少し前までは、全員で1,000バーツで足りていました。献立によってはおつりが来ることもありました。
それが気付けば1.6倍。あと少しで2倍に届かんとする勢いです。
1,600バーツといえば、およそ5,000円。結構な出費です。
とはいえ、わかったと言った以上は、もう出すよりありません。
「でも、おやつはアイスクリームは脂肪が身体によくないから」
「ん?」
お弁当の話が終わったところへ、ジャックさんがやおら続けます。
「だからシャーベットにしました。それにちょっと安いです」
「・・・成る程。で、いかほどなのかな?」
「全部で600バーツです」
聞いてしまった以上、後にひけません。
しかも運が悪いことに、ディレクター氏は出張中です。全て私が一人で負担です。
ああ。そうですか。そうですか。
確かにおやつ代は普段より若干安いねぇ。最近来てくれた新人3人用の三人前くらいの減額かしら。
それに、脂肪を摂らないことも、美容のためには大事だものね。
少しだけ、心の中はやけっぱちになりながら、机の上に並べたお弁当代におやつ代を足し、ジャックさんに手渡します。
「・・・・はいどうぞ。」
合わせて2,200バーツ。およそ7,000円! 月末の思いがけない大出血です。
「うわぁ! ありがとうございまーす! 新人さんたちもきっとビックリすると思います!」
ほんのり申し訳なさそうにしつつも、最後まで相手の心を慰撫する阿片のような言葉も忘れないジャックさんは、作戦通りに昼代とおやつ代をせしめ、去って行きました。
それにしても、まず小さな問題を了承させ、更に事情にも共感させてから、次にするっと大きな問題を持ってくるとは。一緒に会社をスタートさせた頃、価格交渉の席で印刷会社のお兄さんに言い負かされ、しくしく悔し泣きしていた初々しい少女のようだったジャックさんは何処へ行ったのでしょう。もうてんで別人。いつの間に、そんな交渉上手になっていたのでしょう。
ああ、こんな風に翻弄されるようでは、もう私も夜の蝶に身ぐるみ剥がれるオヤジと変わらないかも。
まるで、臓物を抜かれてお腹が虚ろになってしまった魚の干物のようになお財布を眺めながら、感慨にふけっていると、
「ニパさーん、もらったよぉーっ! お弁当とおやつ、買ってきてね〜!」
「はいよー。もう注文はとってあるから大丈夫〜!」
日本の女の子たち風に意訳するならば、「ゲット!ゲットぉ〜!」「オッケー!」という雰囲気の、ジャックさんと備品管理担当のニパさんが、浮き浮きとランチの手配をしている声が、向こうの部屋から聞こえてきました。
実際、ここ数ヶ月といえば、残業も休日出勤もあれば、更に急遽集めた新人の教育、それに伴う普段以上に綿密なの品質管理や在庫管理と、万事が万事緊急事態です。
にも関わらず、トラブルなくしっかり乗り切っている皆の精神力は見事としか言いようがありません。ならば、1日くらい少しだけゆったりできる時間をあげたくなります。
うん、やっぱりランチは当面続けなくちゃね。でも流石におやつは、勘弁してもらおうかなぁ。などとよぎるのでした。
そんなわけで月末金曜日の朝、にこやかにやってくるジャックさんを、私たちは密かに「追いはぎジャック」と呼んでいます。もちろんあの恐ろしい「切り裂きジャック」を真似た呼び名ですが、なけなしの財布の紐をずたずたにする点では間違いなく「切り裂きジャック」の末裔かもしれません。
しかし、このジャックは奪う存在ではありません。様々に素敵なものをもたらします。当面、私たちも財布の紐を毎月切られ続けることになるのでしょう。
さて、タイ料理のテイクアウトのスタイルには驚くべき美と技術が隠れています。スープやスパイス類が写真のようにプラスティック袋に入っているのです。料理と一緒に中に空気を入れてふっくら膨らませ、口はきゅっと輪ゴムで占められています。目の前で封入する手際の素早さが見事ならば、これらが市場でバナナの葉の上にディスプレイされると、料理の色どりは美しくつい、あれもこれもと買いたくなります。もちろん、運んでも一滴も漏れません。そして輪ゴムも結び目に飛び出している慎ましいでっぱりを引っぱれば、くるっと瞬時に解けてしまいます。
この見事な手技は物だけでなく心にも及ぶようで、私たちの財布の紐も、輪ゴムのごとく一瞬にして解かれてしまう訳です。(A.H.)