2014年4月27日日曜日

アメニティの話 amenities media

飛行機に乗った際に貰うアメニティキットが密かな楽しみです。実際に機内で使うかというと、使わずにそのまま持ち帰ることが多いのですが、その趣向を凝らしたポーチや意外な提供ブランドを見るだけでも結構楽しめます。利用する路線やエアラインによって採用されているアメニティも様々で(中身はどれも似たようなものですが)、誰もが知る老舗ブランドもあれば、これはどこのメーカーだろう? とそこで初めて目にする新興ブランドもあります。

エアラインの機内アメニティはある種のメディアともいえ、各国のさまざまなブランドがこれを提供しています。いま日本のエアラインではANAは資生堂やロクシタンでしょうか。JALはよくわかりませんが(ビジネスには特に提供ブランドを冠したポーチはない?)、ファーストクラスはロエベだとか。私のよく利用するタイエアーはポルシェデザインやerb、クラブツリー&イヴリンなど、わりあい頻繁に変わるようです。
実際、機内アメニティの提供ブランドに変更があった場合、多くのエアライン広報はプレスリリースを出して広く告知します。その際にはよく「○○○航空と△△△ブランドとのコラボレーション」という表現が使われるようです。提供したブランドの側でも、自社製品がエアラインのアメニティに採用されることはそれなりのステイタスでもあるので、こちらもまた同様にプレスリリースを出して告知します。

これは何もアメニティに限ったことではありません。機内で提供されるアルコール類にしても「○○○航空のファーストクラスに採用されたワインです(もしくは日本酒です)」となれば、そのシャトー/醸造元のステイタスは更にぐっと上がることでしょう。
先日、日本の酒屋さんで長野の御湖鶴という日本酒を買った際に(芳醇端麗で大変美味しいお酒でした)、その蔵元のパンフレットを貰ったのですが、ここの最高ラインの純米大吟醸はJALのファーストクラスに搭載されているとの記載がありました。数年前にシンボルマークを往年の鶴のマークに戻したJALですが、御湖鶴の蔵元 菱友醸造の家紋もまた同じく鶴のマークです。当然意識してのことでしょう。海外の乗客などはあたかもJALの誂えたオリジナルSAKE(日本酒)かと錯覚しつつも、大きな満足を得るでしょう。飛行機の客室という空間自体がメディアとして認識される所以です。

メディアといえばかつては新聞、テレビ、雑誌、ラジオといった所謂4大マスメディアの時代が長く続きました。しかしこれには現在、違和感を覚える人が多いでしょう。新聞はもはや取らない(定期購読しない)人も多いですし、テレビは放送プログラムを視聴する装置というよりは、むしろネット経由のコンテンツや映画などのパッケージメディアを見るためのものというほうがしっくり来ます。雑誌やラジオに関しても、もちろんメディアではあるでしょうが、それを「マスメディア」と呼ぶほどの影響力はほとんどの人は感じないと思います。
これらの衰退はよく言われます。例えばかつて、音楽の主な流通メディアがCDであった時代は、ある特定の影響力のある大型店舗(CDショップ)もまたメディアとして認識されていました。東京、更には90年代半ばより数多くのレコードショップが凌ぎを削った渋谷を例に取れば、「タワーレコード渋谷店」などは、レコード会社や大手広告代理店からも明確に「出稿メディア」として捉えられていました。その各売り場の平台は各社争奪戦で、自社レーベルの新譜を並べることに成功すれば、それはかなりのプロモーション効果が期待できました。

とはいえCDというメディアがその役割を終えると、それを販売する店舗自体もまた役割を終え、更には一部のメディア性を纏った旗艦店もその役割を変更せざるを得ないでしょう。かつては永遠に続くかと思うほど強大な影響力を誇った4大メディアが、新興メディアであるネットに易々と凌駕されてしまうのを目の当たりにすると、到底変わるはずがないと思われて来たさまざまな物事や関係性も、どんどん変更され更新されてゆくこの事態を受け入れざるを得ません。とはいえそれは阻むべきこと、押しとどめることとも思いません。

飛行機の中のアメニティのように、いっけん数十人〜数百人の小さなメディアであっても、その背後には当然のこと巨大な資本のベース(世界のエアライン)があります。誰もが知るハイ・ブランドから、東南アジアの新興コスメブランドまで、ラグジュアリーな空間と上質な顧客に向けて投下されるさまざまなクリエイションと、ポジション(アメニティ採用)の争奪が密集しています。
とはいえこれも、かつてのCDがそうであったように(移動手段としての)そのステイタスは永遠に続くものでもありません。あまり想像したくはありませんが、LCCが更に顧客を増やしたとすれば、近距離であれば、例えば電車の吊り革ならぬジェットコースターのような安全バー固定の「立ち乗り」だってあるかもしれません(実際そういう計画もあると聞きます)。エアチケット代が更にどんどん下がれば、クラスの別なくアメニティなど真っ先に廃止されることでしょう。

アメニティはその製品単体では存在できません。あくまでそれが提供される環境を得て初めて成立するものです。私たちは製品を作るのにその品質や性能、安全性はもちろんのこと、施されるパッケージデザインや周辺に存在するアートワーク、製品の置かれる環境、使われるシチュエーションも含めて、作り手である私たちの提案するライフスタイルを込めたいと考えています。私たちは製品のことを、利益を生む商品であると同時に、本やCDや映画といったメディアでもあると認識しています。
私たちの製品づくりがアメニティセットからスタートしたのはこうした理由からです。(Jiro Ohashi)

2014年4月25日金曜日

その向こうを想像する import and export

昨年の後半以来、私たちはお客様からの大量の注文に対応するため、製造スタッフを増やすなど、緊急対応を続けています。注文を頂くこと自体は大変嬉しいことですし、また私たちの製品を使って下さるお客様のことを思うと、出来る限りそれにお応えしようと、工場は今もフル回転で稼働しています。
とはいえ、私たちの製品はもともと自然素材でハンドメイドしているものなので、一日として同じ条件で製造ができる仕事ではありません。ですから日々の素材との対話の積み重ねという緊張は常にありますが、今はそれとは別種の緊張感、つまり、数に追われて胸が苦しくなってくるような緊張の日々が延々続いているのです。

私たちの会社は、使用する原材料は農産物や手工業品なので、自ずと手に入る量は限られます。それを「もっと」と求める事は、長い目で見れば環境にも生産者が居る社会にも不均衡をもたらすものですから、私たちは限りない右肩上がりや拡大を目指す経営は考えていません。
そして、スタッフの殆どがお母さんでもあること、業務内容が手や目の感覚の鋭さを働かせなくてはならない神経を使う仕事であることから、残業も基本的に行わないことを旨としています。

にも関わらず少し前までは、それさえも不本意ながら曲げざるを得ず、体調を崩す人も出るほどの緊急事態でした。
皆に申し訳ないと思いつつ、日程と生産量をどうにか調整していた私たちに、仕事の質は落とさず、残業の時には「普段よりも高いお給料をもらうんだし、仕事のペースも質も上げなきゃ!」と、スタッフたちの士気は高く、自らの仕事や組織に当事者意識とプライドを持って業務にあたってくれています。

とはいえ、こんな状態を続けるわけにはいきません。
急遽、求人も行いました。
幸い我が社は、地元でも信頼され、求人を出していなくても時折求職の人がやってきますし、製造マネージャーのジャックさんの人徳もあって予想以上に早く人は集まり、残業問題もどうにか解消できました。
ですが、人を雇うとは、その人の生活を引き受ける責任(仮に将来注文が減ったとしても、たとえパートタイムであろうとも、むやみに解雇することは出来ません)はもちろんのこと、育てる責任を負う事でもあります。
ベテランスタッフには、新人たちへの教育という新たな負担が生じます。つまり少しは緩やかになったかもしれませんが、まだまだ厳しい道のりは続いています。
それでも自分の経験を教えることは、ベテランの姐さんチームにとって満更でもないものだったようです。しかも、手慣れた仕事をあらためて言葉にしたり一挙手一投足を意識し直したため、各製造工程の細部への目配りは一層丁寧になり、その仕事ぶりはまたまた深化中です。一方、若い新人チームもジャックさんの厳しい目に適っただけあって、姐さんたちの教えを初々しく謙虚に受けとめ、まだ途上とはいえ予想以上に早く技術の習得が進んでいます。
こんな風に難題と向き合って、まっすぐ爽やかに進むスタッフたちには、もうただただ頭が下がる思いです。

さて、タイの本当のお正月は4月の半ばの満月の日。
日本では水掛け祭りとして有名なソンクラーンが、こちらの新年です。
そして、私たちの会社のボーナスはこのお正月前です。
本来ならば、新人チームは就労日数がボーナス支給の条件に達してしませんが、技術の習得速度や業務態度はとっくにジャックさん、姐さんチームのお墨付き。私たちはもちろん、年長チームたっての希望もあり、感謝の気持を込めて小額ながら支給する事になりました。

いよいよ仕事納めの日、お給料とボーナスが支給です。皆朝からご機嫌です。
そんな中、新人の中でも注目株のコイさんがいませんでした。
このところの酷暑で体調を崩していたのですが、夕方になんとか顔を見せてくれ、お金は手渡せたのですが、その時の「え! 私も貰えるのですか? いいんですか?」
という、嬉しさよりも、うろたえや戸惑い、困惑にも似た驚きが勝った表情がどこか胸に引っかかりました。
そして1週間のお正月休みが明けて、仕事始め2日目。
ジャックさんが、がっかりした顔でやってきました。

「どうしたの?」
「うぅぅぅぅー。。。。」
途方に暮れた仔イウォークのような声で(ジャックさんはイウォークのような声でよく笑うのです)唸るジャックさん。

「コイさん、昨日も今日もお休みなんですが、ここを辞めますって」
「えぇっ! どうしてまた!!」
こちらも余りの事にびっくりです。

「実は、コイさん、カラオケ屋さんを開店したばかりで、そちらが忙しいから両方は難しいって・・・。」
「そうか、昼間も夜も仕事は大変だものね。でも、急に辞めてしまうというのは、少しがっかりだね。先に言ってくれれば良かったのに。お店、頑張ってね! って言いたかったねぇ」

タイでは、会社勤めよりも自分で小さな商店や会社をする方を好む人が多く、私たちの会社のスタッフでも、畑を持っていたり、会社に来る前は家族の市場の仕事を手伝ったり、幾つかの副業を持っているケースはよくあることです。
とにかく自立を目指すのはとても素敵なことです。私たちは素直に「頑張って!」とエールを送りたかったのです。

一方で、真面目なコイさんが予告なく突然辞めたこと(事前報告は、入社時に約束します)、ボーナスを受け取ったときの不思議な表情がやけに思い出されて気になりました。すると案の定というべきか、ジャックさんの話は唸り声どおり妙な方向へ進んで行きました。

「コイさんも本当は、お休み前に辞めるって言わなくちゃと、何度も思ったそうなんです。でも辞めますって言ったら、給料が貰えないんじゃないか? って怖くなって言えなかったって・・・。」
「えぇっ! ウチはそんな事しないですよ」
「もちろん、ジャックもわかってます。でも、コイさんはそういう経験があったのかも・・・。」
「ああ、なるほどねぇ」

タイも労働基準法自体はしっかりしたものですし雇用条件の改善は進んでいます。例えば、休日出勤や残業手当などは、日本よりも手厚く労働者を守る内容になっています。
しかし良くも悪くも法の解釈が柔軟なお国柄であり、個人商店のような規模の会社では、むしろこの手厚い条件は対応しきれない場合もあります。コイさんが恐れたような事例もまったく無いとは言い切れません。
私たちは少しがっかりしつつ、コイさんのお店の成功を祈りつつ、その不在を補う再求人の相談を進めざるをえませんでした。

こうしてちょっと憂鬱な一日を終えて、コイさんの一言が、遣り切れなくて行きつけの食堂で「そんな会社もあるんだ、酷いよ!」と、こぼしたところ、いやいやキミ、そんなのまだ可愛いもんだよという声が周りから戻ってきてしまいました。
小さな失敗を理由にした解雇(問題解決は、信頼関係を深めるチャンスなのに)、残業代の未払い(所謂サーヴィス残業?)や、不良品を出してしまった場合の個人の給与減額(法的には禁じられています)、トイレに行く時間に制限がある( ...!)などなど、聞かなきゃ良かったと思うようなトンでも事例の噂を聞いてしまいました。もちろん、これはごく一部の困った会社での事であり、噂ではありますが・・・。

その中でも一番驚いたのは、ある食品系の会社の話。取引先から急遽納品数の増量を求められたのだけれど(それはよくある、そして歓迎すべき事ではあります)、その増産希望数の試算の根拠のひとつになっていた製造日数は、土日祝日も労働日として数えたもので、その発注に製造現場のモチベーションが落ちに落ち、高まったのは取引先への不信だけ。
結局出荷数は減らしたものの、乱れに乱れふてくされる製造現場の従業員らを取りなし、不安定になった品質の管理のため、マネージメントは地獄を見、ついには心労のあまり入院してしまったという話でした。

「コイちゃんの話はタイの小さな会社の話だけれど、この発注元は、経済大国って言われるような国の企業だっていう話ですよ」と、苦笑いの男性。
周りからは「それってブラック企業の輸出だろ?!」(これを言った40代のタイ人男性は何とブラック企業という言葉を知っていました)と、呆れと怒りと脱力の反応が入り交じった中、その作り話だろうと思いたくなるようなゴシップを語ったおじさんは、まるで最高に苦い思い出を噛み締めるような面持ちで、タイ式に氷を入れたチャーンビールを飲み干したのでした。

少なくとも、私たちの会社で働くタイの人々は、何か良い事があればそれを分かち合い、自身の仕事に誇りを持ち、家族や仲間たちを大切にし、幸せを願う真面目な人たちです。
そうでなくても、それぞれに日々を懸命に人は生きているのです。
もし、件の発注をした企業の担当者が、自分だってそうだというならば、その自分の「懸命」は、支えている多くの人がいればこそ成り立っている。それに少しは気付いたらどうか? もっと自分のしている事の向こう側に「人が居る」こと、その人たちがそれぞれに生活を、人生を持っていることを想像してみてはどうか?
ひとくさり語り終えて、なんだか無残な表情のおじさんの横顔を見ながら思ったのでした。

いずれにせよ、大量に作って大量に売って、大量に消費すること。便利さ、わかりやすさばかりをビジネスにした時の「もっと! もっと!」という高揚感の中では、忘れられてしまいがちなことです。
そのような市場の渦中にいれば、生産量の試算の時、それを作るのは「働く人たち」であり、彼らには家族との大切な時間があり、信仰があり、休息があり、そうした生活と共にこそ、人々の「働く時間」があることなど、利益と面子の前には小さすぎて、忘れてしまうのかもしれません。(A.H.)

2014年4月12日土曜日

平地のタイ人と山の人 その2 plains and mountains people 02

では、いわゆる“平地のタイ人”たちはどうでしょう? まず前提として(当然として)タイ人=タイ族ではありません。辺境の少数山岳民族以外にも、タイにはさまざまな民族が存在します。タイ族は中国からインドシナ半島のラオス、タイにかけて広がるタイ諸語を母語とする全ての民族の総称です。加えて大きな経済力を持つ華人(中国系タイ人)との混血も進んでおり、現在中国人の子孫ではない(華人の血の全く入っていない)タイ人は、逆にそれを探す方が困難といわれるほど多いと言われます。
タイという国とそれを構成するエスニック・グループを考察することは、この国の歴史とその成り立ちに深く触れることになりますが、ここでは私たちのいるチェンマイを中心とした北タイに絞ることにします。

チェンマイの街中の人々は、同じタイ人であっても自らをタイユアン(平地のタイ人)またはコンムアン(里の人)と称して山地民と区別しますが、こうして区分される対象としての“山の人”(少数山岳民族)とは別に、タイ・ヤイといったシャン族系の人々がいます。シャン族は名前からもわかるように、タイのかつての呼称「シャム」をその語源とするタイ系諸族のひとつです。

私たち外国人には全くわかりませんが、こちらの人々は街中で通り過ぎる人を見ても、「あの人はシャン、あの人もそう」とその微妙な言葉や肌の色、顔立ちの違いから一見して分かるのだそうです。こうして表現されるシャン族系の人々は、以前からこの地に住んでいた人々か、もしくは何世代か前に彼らの多く暮らすミャンマーなどからタイに移住してきた人々です。すでにこちらに生活の基盤があり相応の社会的ポジションを得ている人もいます。当然タイ人としての自覚もありタイ社会とも完全に一体化しています。シャン族は古くからの稲作農耕民で、今もタイ北部のメーホンソン県〜ミャンマーのシャン州の平地、中国の一部になどに居住しています。

しかしかつては同じシャン族であっても、国境線が引かれた後に居住地域がミャンマーとなり、近年そこから難民として逃れてきた人々は、また状況が異なります。
かたや自由主義経済を選択し、東南アジアの優等生といわれる目覚ましい経済発展を遂げたタイと、かたや社会主義経済を選択し、その後の軍事政権でも厳しい生活を余儀なくされるミャンマーとでは、その経済格差は歴然です。経済的困窮もしくは政治体制の違いから難民として逃れて来た人々はタイの国籍がありませんし、正式なIDカードもありません。期間限定で発給されたIDでは実質単純労働にしか就けず、多くの人々が工事現場などの肉体労働に従事しています。チェンマイの豊かな都市生活は、こうした人々が下支えしてくれているともいえます。

朝、車で会社へ行く際に、ハイウェイでは荷台にびっしり10人以上の人々を満載したピックアップトラックをよく見かけます。荷台に乗り排ガス対策で頭からすっぽりとマスクを被ったその姿は、さながらアラブのゲリラか騎馬戦士のよう。そのほとんどがミャンマーから逃れてきたシャン族の人々です。それは彼らが工事現場へと向かう出勤風景です。

現在の国境線が引かれた後に、タイ側に居住した人々とミャンマー側に居住した人々、それぞれの置かれた状況は違っても、同じシャン族に変わりはありません。
先日の日曜日、4月6日はチャックリー王朝記念日で祝日でした。翌月曜の振替休日と併せて三連休だったところもあります。この連休の3日間を使って、シャン族(タイ・ヤイ族)の少年たちが皆揃って出家を祝うお祭り“ポイサンローン”がありました。

場所はかつての王城の跡が残るチェンマイの旧市街、民族衣装に着飾った少年たちを大人たちが肩車しながらお堀のまわりを練り歩きます。行列は主役である少年たちを中心に、同じく美しい民族衣装で着飾った少女たち、(肩車するにはいささか重い)大きめの少年を載せた馬、それを牽く大人たち、そして鐘や太鼓を打ち鳴らして気勢をあげる若者たち(なかには祭りの高揚感から声をあげながらトランス状態で踊りまくる若者もいます)。ポイサンローンでは老若男女、一族皆で少年たちの出家を祝います。

タイでは(上座部仏教徒は)、男子は一生のうち一回は出家するものとされています。通常は成人前に行いますが、とはいえ多くはそのまま僧侶となるのではなく、お寺にもよりますが、たいていは数週間(最短では3日!)で還俗します。この最初の出家は本人の修行のためというよりは、むしろ子を出家させる親のため、(親の)徳を積むため、ひいては親孝行のために行われます。ですから、息子を出家させて意気揚々、鼻高々の両親はもちろん、兄弟姉妹、叔父叔母、一族郎党、皆の喜びとして盛大に祝います。

ちなみに連休となった祝日は「チャックリー王朝記念日」ですが、これはそもそもバンコクに都を置く現王朝の記念日です。ここ北タイでかつて栄えた王朝は、チェンマイに都を置いたランナー王朝です。日本でいえば京都でなぜか神田の三社祭をするようなものです。歴史的には縁もゆかりもないバンコク王朝(チャックリー王朝)の記念日に、地元のシャン族の人々が宗教儀式としてのお祭りを行う、というのも考えてみれば不思議なものです。

とはいえ、そうした何でも受け入れる柔軟性と大らかさ、細かいことに頓着しない「マイペンライ(大丈夫、問題ない)」の気風は、タイという国ならではです。普段はそれぞれ複雑な状況に暮らすシャン族(タイ・ヤイ族)の人々にとって、ポンサンローンは年に一度のハレの舞台。そのお祭りの舞台として、ランナー王朝のかつての都チェンマイの、王城跡のお堀を練り歩くのです。しかも警察官がしっかり先導し、観光客でごった返すお堀沿いの道を交通規制して彼らの行列を守ります。
民族衣装で着飾った、彼らのその美しい行列を見ていると、その出自や貧富の差、社会的ポジションや置かれた状況を越えて、同じシャン族としてのプライドと、皆でお祭りを祝える喜びが私たちにも伝わります。そんな美しい夢のような行列でした。(J.O.)

2014年4月11日金曜日

平地のタイ人と山の人 その1 plains and mountains people 01

タイの北部から北西部にかけては、今もなお独自の文化を持つ多くの山岳民族が暮らしています。チェンマイでも少し郊外へ行けば彼らの暮らす村があちこちにありますし、旧市街の中心地、観光客で賑わうワローロット市場の一角にも、山岳民族の人たちが手織り布やアクセサリー、色鮮やかな民族衣装などを売る店が軒を連ねています。一見すると独自の伝統的な習慣や文化を守って生活しているようにも見えますが、そこはそこ、彼らはなにも隔絶した生活をしているわけでもありません。

彼らの生活する家の軒先には巨大なパラボラアンテナが立ち、テレビの衛星放送を受信していますし、子供たちの中には庭先のベンチに座り、スマートフォンでゲームをしている子もいました。街中までは荷物を持ってソンテウに乗り行商に行く人もいますが、旧市街の市場にはバイクの横にリヤカーのような荷台を付けたサイドカーで通う人もいます。中にはピックアップトラックで移動する人もいます。色鮮やかな民族衣装は街中で行商をする際の仕事着、制服として割り切って着用する人もいるでしょう。

もちろん民族衣装を日常的に身につけ、伝統的な高床式の家に住み、仏教ではなく精霊信仰やキリスト教を信仰し、昔ながらの文化と習慣のなかで生活する人々もいます。年配の人々ならば尚更です。とはいえ若い人たちはどうでしょう? これだけメディアが発達した現在、昔ながらの独自の生活習慣を守って生きて行くほうがエネルギーがいるようにも思います。

海外からこの地に観光に来る人々の中には、すべてスケジュールがお膳立てされたパッケージツアーを嫌い、自分自身で興味のある場所と内容を組み合わせて、独自に日程を組む人たちも多くいます。
「タイに旅行した」と言ってバンコクのサイアムスクエアやシーロム通りでショッピングしたとか、パタヤやブーケットのビーチでのんびりしたとか、暁の寺やワットプラケーオの王宮を見て回った、と言っても(それなりの満足感はもちろん得られますが)、それでも「何か物足りない」と感じる人もいるでしょう。そうした人々にとっても、北タイの山岳民族の村を訪ねるという体験はとても魅力的だと思います。

とはいえ、人気のメニューである「山岳民族訪問ツアー」も、当然それは数ある観光メニューの中のひとつです。それでも自らの興味と行動力によって独自性を保ちたいと更に「敢えて観光地化されていない(ツアーコースに入っていない)山岳民族の村を訪ねたい」と希望する人もいます。しかしそれは、何か明確な目的を持った学術調査や、織物、木工、金属加工など伝統的な手工芸に対するビジネス的アプローチ(相手にも益のある交易提案)などが無いならば、おそらく訪ねてこられる側からしたら迷惑であるとも思います。

観光客の入り込まない山岳地帯に分け入って現地の人々の生の生活に触れる、といえば聞こえは良いですが、彼らの生活や文化、そして存在そのものは当然見せ物ではありませんし、見学対象でもありません。言葉も英語はまず通じませんしタイ語も通じません。民族ごとにそれぞれ独自の言語があります。コミュニケーションを図るのも大変です。その村が観光客を受け入れていない(観光地化されていない)のならば、それなりの理由があってのこと。

タイの北部、北西部の山岳民族は、ラワ族のように現在の国としてのタイが成立する以前からそこに住む先住民族もいますが、しかしその多くは19世紀〜20世紀にかけて、中国やミャンマー、ラオスなどから、さまざまな理由で移住して来た人々です。迫害から逃れての政治亡命もあれば経済的理由でやって来た人々もいます。
かつてはタイ政府の治安の及ばない国境周辺の山岳地帯に住み、稲作を中心とする“平地のタイ人”たちとは互いに棲み分け、直接交わることもなければ軋轢もほとんど無かったといいます。
焼畑農耕と畜産を主な生業とし、彼らの文化として機織りや手工芸で自身の身の回りの品を誂え、自給自足で生活していたといいます。

しかし今は21世紀、辺境の山岳民族をそのまま放ってはおきません。タイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川を境に接する山岳地帯は“ゴールデン・トライアングル”と呼ばれ、かつては麻薬原料としてのケシの栽培で有名な地域でした。現在では取締りの強化や経済成長でタイやラオスではケシの栽培はほぼ消滅、もしくは減少傾向にあるともいわれますが、逆にミャンマーではいくつかの軍閥を中心に今も麻薬・覚せい剤の製造が行われるなど、二極化の傾向にあるといいます。
とはいえ、ケシは19世紀に中国など列強国がこの地に持ち込んだもので、彼ら山岳民族が昔から栽培していたものではありません。

タイに関していえば、山岳民族の定住化と麻薬撲滅、他国から逃れて来た国籍のない山岳民に対してIDカードを発給するなど、あまねく国境周辺までのタイ化を進めてきました。
貧しい山岳民にとってケシの栽培は、麻薬という反社会的存在というよりは、むしろ貴重な現金収入であったでしょうし、焼畑による農耕は土地のローテーション・サイクルによる集落の移動を促していたはずです。20世紀後半の“世界の価値観”は、こうした彼らの生活スタイルに急激な変化を強いることにもなったでしょう。

山と平地の価値観、都市と地方の価値観。ミャンマーとタイ、タイと世界、富める人と貧しい人、仕組みの異なる国と国。そんな多様な価値観と民族とその生活が渾然一体となったここ北タイで、日々私たちは製品を作っています。(J.O.)

2014年4月10日木曜日

“ワイ” 道具に敬意を、仕事に誇りを pride in work, respect for tools

タイで暮らすようになり、日常的に手を合わせることが増えました。「手を合わせる」といっても、なにもお墓や仏壇に手を合わせるのとはちょっと違います。
日本では手のひらを合わせる動作を「合掌」といいますが、ここタイではその所作を「ワイ」といいます。タイ人との付き合いの中ではもちろんですが、生活の中で自然に身と付いてきたように思えます。
しかし「ワイ」は日本のいわゆる「合掌」とは異なります。「ワイ」は、相手への敬意を示すタイの伝統的な挨拶です。飛行機を降りる際、上質でトラディショナルなレストランで食事をした際、スパなどで心地よいマッサージをしてもらった際……。タイを訪れるとあちらこちらでよく見かけると思います。ワイはタイの文化や礼儀においても大切にされており、その相手や敬意の度合いによって作法も違ってきます。また、手の合わせ方も合掌とは異なり、蓮の花の蕾を模して少し中を膨らませます。

「ワイ」は挨拶だけに限定されているわけではありません。タイの習慣として様々な儀式でも行われる美しい所作です。例えば、生徒が先生に敬意と感謝を示してワイをする「ワイクルーの日」があります。(「クルー」は「先生」の意で、「先生にワイする日」)また、タイ式マッサージやスパで施術に入る前に「ワイ」を行う場合もあります。この場合、もちろんお客様への挨拶でもありますが、「さあ、これから始めますよ」と、施術に向けての施術者自身の心の切り替え、準備も兼ねているようにも思われます。
 
私自身もタイで長く暮らすようになったので、「ワイ」がかなり身に付いたと自負しています。しかし、先日「ワイ」の意義をさらに深く考えることがありました。
それは私が工場内で初めての製造工程研修をしていた時のことです。
その日、工場長のジャックさんが、私の作業の確認に来ました。柔らかな物腰で、ニコニコしながら穏やかに話しかけてきます(それでも、点検の目は厳しいです)。
「ワイはしましたか?」
私は、作業中の手を止めて、首を傾げました。
「ワイ、ですか?」
ジャックさんはニコニコしています。他のスタッフもニコニコしています。
私は手を合わせて、「ワイ……、ですか?」ともう一度聞きます。
ジャックさんは頷きます。
「今、ですか? 誰にワイするんですか?」
私は同じ作業台に座っている、ジャックさんとタイ人スタッフ2人の顔を見回します。
ジャックさんは穏やかに言います。「器械にワイするんですよ」。
他のベテランスタッフも言います。「あらあら困った。作業を教えたのは誰ですか?」
「プンちゃんだよ、全部教えていなかったんだねえ」
「忘れていました、すみません」
ジャックさんと他のタイ人スタッフが話しています。
私は、作業台に置かれたシーリングの器械に視線を落とします。
「今度作業に入る時には、ワイしましょう」
ジャックさんは、私のシーリングした袋を点検し終わると、そう言いました。
私は作業に戻ります。

シーリングは、私が一番好きな作業です。商品を作り上げた感触を実感し、ゴールのような達成感があります。使う人が後ろで待っているような温かい気持ちが生まれてきます。
そして、ガスールの点検、計量と袋詰め、袋の成形、シーリング、重量の最終確認、パッケージング等のガスール生産の全行程の中で器械にお世話になるのは、このシーリングの作業と計量の時だけです。あとは、人が主体となって行う、人の手と目に委ねられた作業になります。
他の作業よりも一人前にシーリングの作業がこなせるのは(私は褒められた研修生ではありません)、この器械のお蔭かもしれません。合格をもらったシーリングの線と、よそゆき顔になった袋の中のガスールを眺めながら、そう思いました。
 
「ワイ」は、私たちの現場でも息づいています。では、モノづくりにおいての「ワイ」の必要性とは何でしょうか。
モノづくりは人の手で行います。人が手を動かす時、傍に道具があります。シーリングの器械だけでなく、また計量器だけでなく、ガスールを小さな破片に切るための道具であったり、また石鹸を切るカッターであったり、様々な道具がたくさんあります。私たちの工場に大きな機械はありませんが、小さな器械と道具はたくさんあるのです。
とかくモノづくりは、人の手でのみ生み出すことと思われがちですが、実のところは、多くの道具にお世話になって行われています。その道具たちとの良好な付き合い方としての礼儀、関係を織り結ぶ際に自然に振る舞うための行為が、スタッフたちの言う「ワイ」なのかもしれません。

まだ私は、正直なところ自分が道具に向き合って作業に入る時、慣れない場所に立っているような緊張感を感じます。自分の力では出来ない仕事を委ねる道具に「ワイ」をすることで、その緊張感が解けて、同時に目の前の仕事の意義が明確になるような気持ちの変化も感じます。
「ワイ」は、他者に接する際の礼儀であり美しい所作であると共に、私たちの気持ちの持ちようを切り替える区切り、自己洞察の二面性も併せ持った行為であるとも思います。
それらを、工場長のジャックさんをはじめスタッフの皆は、自然体で解っているのかもしれません。


あくる日、タイ人スタッフがシーリングの器械に「サワッディカー(おはよう)」と言葉をかけていました。なんだかとても微笑ましく思いました。私も今日はワイをして挨拶します。(Miyajima

2014年4月9日水曜日

耳を澄ませて Listen lesson / chitchat

日常にあふれる音は色々ありますが、普段は耳を澄ますこともなく、聞こえるけれど聞いていないことがよくあります。
最近の私はよく聞いています。何を聞いているかというと工場の中の音です。面白いもので、朝から夕方まで一日聞いていると時間毎に聞こえてくる音も異なるのです。メールチェックをしている午前中やパソコン作業に没頭している昼下がりに、私の後ろからは様々な音が聞こえてきます。

まず、朝一番は出勤してきたメンバーから椅子をおろしたり、道具や材料を並べたりし始めます.みんな始業時間の30分ほど前から出勤してきて、ガタガタ・ガチャガチャにぎやかな音が聞こえてきて、工場が目を覚まし今日も1日が始まるなと言う気にさせてくれます。
午前中はみんなおしゃべりが盛んで、あちこちからにぎやかな笑い声が聞こえてきます。お昼の休憩を挟み、しっかり食べて少しだけお昼寝をして、気力も体力も十分に充電したら、午後の作業が始まります。午後も午前中に負けないくらいにぎやかで、作業スペースの一番端と端の人が話をし、間にいる人がそれを聞いて笑って、とても楽しそうな雰囲気です。
どんな話題なのか耳を澄ませていると、食べ物の話(今日のおかずは何にしようとか、安くておいしいトウモロコシをどこどこで買ったとか)が多いようです。健康の話(昨日病院に行ったら医師にこう言われたとか、誰々は血糖値が高いとか)もよく話題に上ります。
その中でも先日大盛り上がりだったのは昔の出産話です。ほとんどのスタッフが主婦であり母でもあるので、昔の出産エピソードになるとあちこちから声が飛んできて、それはそれは賑やかでした。

その合間にも満杯になった商品コンテナを移動して、次の材料を運んでくるゴロゴロというキャスターの音もひっきりなしに聞こえてきます。ラジオを点けて懐メロが流れれば口ずさみ、DJのトークに笑って、つっこんで。午後の休憩を挟んで最後の作業時間は、心持ちトーンが下がる気がします。一日手と目をフルに動かしてさすがに少々疲れてきたのか、おしゃべりの声も朝に比べると少数です。
それがまた、終業近くの片付けになるとにぎやかになります。手早く後片付けをすませると、朝とは打って変わり終業時間と同時にみんな我が家へ帰っていきます。きっと家でも母として、妻としていろいろな仕事があるのでしょう。そして、みんなの帰った後の工場は少し弱まった日差しの中で、ほっと一息ついているように見えます.

さぁ、今日もガスールリーダーのエードーイさんの話で一日が始まります。「おしゃべりをするのは良いけれど、手が止まらないように。チェックの目がおろそかにならないように」と注意がありました。
私は話を聞くときはまだまだ相手の口の動きを見ないと聞き取れないので、(特にここでの公用語は北タイ方言なのでなおさらです)作業中もおしゃべりには参加できず、もっぱら耳を傾けてみんなの話を聞くことになります。わかる内容もあればちんぷんかんぷんな内容もあります.
SAL Laboratoriesで働き始めて1ヶ月、まだ何をするにも一人ではできない中、目で見て・手に取って・勧められるものは何でも食べて(これは休憩時間のおやつです)・庭を歩き回ってあちこちに植えられているハーブの匂いを嗅いで・そして耳を澄ませて聞いて……。教えてもらうばかりで一日があっという間に終わっていきます。

まだまだ戸惑うことも多いですが、五感を研ぎ澄ませて、今日も吸収したいと思います。少しでも溶け込みたくて、近づきたくて……。(katsuyama