2014年1月11日土曜日

鹿の苑の少女  my dear deer girl

いろいろな用事と重なり、日本へ行く予定が丁度、日本橋高島屋でのバーンロムサイ展と重なりました。
街はちょうどクリスマスの時期、しかもそれは、偶然にもバーンロムサイの主宰者、名取美和さんのトークと、バーンロムサイ出身のアームちゃんによるタイ舞踊も行われる日でした。
私たちの年末のスタッフ慰労パーティでも、プロとしてステージを踏み踊りを披露してくれたアーム嬢。ささやかな花束を携えて出かけました。

息せき切って駆けつけた日本橋高島屋(ここは百貨店建築として初の重要文化財の指定を受けた素敵な建物です)の、広く天井の高い中央正面玄関のホールには、まさに踊り始める彼女の姿。まだ、あと少し重心が低くなれば……。など、辛口で見れば、磨かれて行く途上ではありますが、その踊りには不思議な清雅さがあります。常に型として浮かべられる微笑みにも、舞台に立つ居ずまいにも、どこか静かな喜びが湧き上がってくるような何かがあるのです。
少し有名なチェンマイの(現在の)舞踊手たちは、型として浮かべられる微笑みをどこかで受け入れていません。彼女たちの『私の本当に表現したい現代舞踊』では、その笑みはバカバカしい空疎なものとして、戯画化されたりします。そのせいか、彼女たちが踊る本来プロフェッショナルであるはずの伝統舞踊を観る時、いかにその技術が素晴らしくても、どこか落ち着かない仮初めなものの気がしてしまうのです。

いっぽう、アームの笑みは、なにかうち震えるようなものが花弁のように溢れてくるのです。
定期的な薬の服用により発症することなく、ごく普通に生活し、大学にも通い、将来を組み立て、よりよく生きようとする彼女ですが、それだけに内側には、HIVに起因する差別、あるいは病による生と死を思う精神的な、私には想像も及ばない闘いが日々続いているはずです。
そんな生死の拮抗にあって「普通」である事はどれほど大変なことなのでしょう。

彼女が舞う時の静かな笑みや立ち姿には、その日々の様々を受け止めながらなお、舞うこと、そこに居ることの喜びが、泉のように湧き上がり、含恥とともにそっと溢れてくるような気配があります。むしろ、その「笑みの型」があればこそ、彼女はその胸中にある感情を乱すことなく、美しく振り零すことができているのではないか? そんな風に思えて来ます。踊りの型として浮かべられた笑みは、彼女においてはそれはいつしか、本物の彼女の心の形になってるのではないでしょうか。

そんな事を思いながら、最早、我が子の初舞台を見るような心地でハラハラしている私に、バーンロムサイの要である麻生さんがそっと近づいてくると、
「アームはね、あの鹿が首を振るととても安心して気持が良くなるんですって」
と、目は彼女から外すことなく、ちょっと可笑しそうにそして愛おしそうに耳打ちしてくれました。
成る程、大人でもちょっと欲しくなるような、むくむくした手触りが素敵そうな、真っ白なトナカイの美しく、そして大きな大きな人形は、音に反応するセンサーでも付いているのか、タイの音楽の低音のパーカッションのリズムに合わせ、「うん。うん。良いぞ!」と、厳かに首を上下に振っています。
件の白いトナカイ、金色の贈り物の箱、真っ白なツリー。白と金のディスプレイはとても上質で可愛らしく、アームにもとてもよく似合い、そこだけ、エキゾチックなスノーボールの中のようにも見えます。
よく考えてみると、そういえば鹿は、タイのお寺の壁画にもよく登場しますし、お釈迦さまが悟りを開いて最初に説法をしたのは「鹿野苑」という、鹿が沢山いた苑です。もしかすると、アームはそんなエピソードを知っていて、鹿たちの遊ぶ尊い園で舞っている心地でいたのかもしれません。

最初の演目が終わり、衣装を替え、次の演目が始まった時。
まだ、踏んだ舞台の数も少ない舞踊手が、初々しく最初のフォルムを取りながら、ふっと微笑んだ瞬間、その金色の爪飾りをつけた指先に、観客たちの視線と心すべてが釣り糸にかかった魚のようにぐっとたぐり寄せられ、あたりは皆がその存在にのめり込むような集中力を帯びはじめました。
その、初々しい女の子から、プロの舞踊手に彼女が存在の質を変えるのを見た瞬間、私は、この小さな舞踊家の将来を想像し、その一瞬得も言われぬ胸が透くような心地がしたのです。

*ちなみに英文のタイトルのDearとDeer。響きが似ているので遊んでみたのです。
そして、イエスは鹿をトーテムとする一族の出身であり、ヒンズー教のクリシュナも鹿に変身します。日本でも鹿は聖なる動物であり、中国で神仙が天に昇る時の乗り物はしばしば白い鹿。
トナカイも、北方の遊牧民たちの中では命を繋ぐ存在であり、また、鹿の角が落ち、また伸びるさまには死と再生のイメージがつきまといます。
幼い頃から、死を見つめながらも、よりよく生きることに真っ直ぐな少女の守り神としてはこれほど相応しいものはなかったでしょう。そう思いませんか?(A.H.)