2014年11月19日水曜日

生後10ヶ月と築10年 10 months old & 10 years ago

会社の社屋もすでに建ってから10年を越えました。築10年といえば、日本ではまだまだ古い建物の部類ではないでしょうが、ここは南国の地チェンマイです。強烈な日差しと紫外線、亜熱帯特有の激しいスコールなどで建物へのダメージは相当です。当時、市内にあったとあるギャラリーを模して設計した室内に光のたっぷりと差し込む今の建物は、内装外装ともに白を基調としており、建った当初はそれはモダンな建物だったでしょう。そんな白亜の輝く工場も、今ではすっかり年期が入り外壁にも風情が出て来て周囲に溶け込んでいます(ものは言いようです)。南の国の建物はこうして朽ちて最後は土に還るのでしょうか? などというと「いったいどんな廃墟?」と思われるかもしれませんが、建物は使われてなんぼ、人が住んでなんぼですから、スタッフ全員が大切に使っているだけあってきちんと機能は維持されています。特に外見は。

それでも建物は衰えますしそれは人間と一緒です。肌も衰えれば代謝も落ちます。髪も心持ち薄くなりお腹も出てきて血圧高め。まあそんな感じです。外壁塗装は剥がれ気味でそろそろ塗り直しの時期、電気系統も断線箇所がちらほら。天井付近の亀裂から雨漏りも見られ、シロアリや小動物の侵入も。こう書くとやはり大変な建物のような印象ですが、こちらではこれも当たり前です。製造の現場や製品保管庫は完璧にガードしつつも、それ以外のスペースはけっこう大らかです。皆自然と共に暮らしていますから少しくらいの建物の草臥れは気にしません。逆に言えばアルミサッシやエアコン等で完璧に密閉された人工空間のほうが落ち着かない、というかこうした快適さに違和感を感じるようです。

暑季は暑いのが当たり前で乾季はそれなりに涼しく過ごし易い。もちろん私たちの感覚からすれば一年中暑いです。それでも季節の移り変わりは確実にあります。建物全体を密閉した人工空間とするのではなく、その辺は環境に合せて風を入れたり木陰を作ったりして快適さを工夫します。
例えば私たちは、冷蔵庫とテレビ(最近観る人も少なくなりましたが)は大きいほど良い、という価値観で長らく過ごしてきました。台所の食材はできる限り冷蔵庫に保存することが身についてしまっています。でも考えてみれば冷蔵庫はあくまで冷蔵庫、電気を使って外気温を常に強制的に下げ続ける特殊空間です。なんでも取り敢えず放り込む食料庫ではないのです。
先日の引っ越しの際、運送業者のタイ人の親父さんたちは、私たちの家の容量400Lほどの冷蔵庫を見て「こんなでっかいのは初めて見たなあ。人が入りそうだぞ。店(業務用)みたいだなあ」と驚いていました。日本や欧米(特に米)の感覚ではこのサイズの家庭用冷蔵庫は決して珍しくないはずです。もっと大きな外国製品もざらにあります。しかしこちらタイでは運送屋の親父さんも驚く巨大冷蔵庫となります。

都市部はそうでもありませんが、田舎へ行くと今でも瓶入りの飲み物等、保存が効くものは冷蔵庫には入れません。そのかわり冷蔵庫には氷を入れておきます。こちらの人はビールなども氷を入れて飲むのはそうした習慣からです。あとは肉とか野菜とか。常温で置いておいてはすぐ腐敗してしまうものを入れます。
というか、こちらの人々は必要最小限の食材しか家に置きませんし、何にせよ溜め込むということをしないように思えます。その日の食材はその日に市場で買う。市場自体を大きな公共の食料庫と考えているようにも思えます。バンコクなどの都市部ではまた違った印象なのでしょうが、少なくともここ北タイのチェンマイ周辺ではそう感じます。
そんなこんなで私たちの工場は、外壁の経年劣化やペンキの剥げ、築年数相応の雨漏りなどはありつつも、原材料保管室、石鹸乾燥室、そして大切な工房エリアは大きな冷蔵庫や保湿庫のように守られているのです。こうした特別な場所を維持しつつも、それでもやはり大規模修繕は避けられない状況です。

例えば犬を見ているとわかります。私たちの会社ではミー・チョックとミー・スックの2匹が警邏隊よろしく日夜会社の敷地内を安全と防犯のために遊び回って、もとい活動しています。まだ会社に来て10ヶ月くらいの0歳児ですが、犬の月齢は人間とは大きく違います。大型犬と小型犬、幼犬期と老犬期でもまた異なりますが、ざっくり人間の年齢の6倍の時間が彼らのなかで流れていると言われます。特に幼犬期の時間の流れ方はおそろしく速く、生後10ヶ月足らずの2匹ですがその姿はすでに成犬、もう立派な大人です。兄のミー・チョックなどはもはやおっさんの貫禄です。
こうした猛烈な時間の流れを目の当たりしていると、建物に流れる時間も、必ずしも普遍一定に流れるものではないと思えて来るのです。もちろん気温や湿度、日照や降水量、寒暖の差や降り注ぐ紫外線などなど、その物件の建つ場所の条件は違うでしょうし、災害や戦争による倒壊破壊もあったでしょう。それでも数百年続く石造りの街並みが残る欧州各所と、多くは人生一代限りで壊され新たに建て直される高温多湿の東南アジアとでは、そもそもどうも流れる時間が異なるのじゃないかと。
人が住まなくなった家はみるみる荒れて朽ちてゆきますが(人の気配の消えた家にはシロアリ等が安心して入り込み朽ちさせるから、とも言われますが)、そうした誰もが思い当たる現象も人の一生、犬の一生、建物の一生といった具合に月齢、年齢の違い、流れる時間の違いなのではないかと。

かたや生後10ヶ月ですでにおっさんの貫禄を醸すミー・チョック。かたや築10年ではありますが、日本のマンションでいう築30年の風情の工場棟。もう十分育ったし十分働いてくれました。
ということで、工場の大規模修繕が始まりました。(Jiro Ohashi)


2014年11月18日火曜日

マイペンライ “Mai pen rai” does not mean “no problem !”

マイペンライ! といえば、タイの人たちのお気楽さや責任転嫁しがちな気質を象徴するキャッチーフレーズのように外国人の多くは思っている気がします。そして外資企業では、タイ人スタッフとの価値観や業務意識の共有しにくさの元凶のように言われることもしばしばです。
そんな中、我が社の中で多分一番「マイペンライ」を連発しているのは、意外や外国人の私です。
もちろん、用法は一般的に思われているのとは違いますが。

それは、何年も前のある年長スタッフの失敗に始まります。
当時、彼女は人間関係に悩んで仕事に身が入らずにいました。もともとおっとりした方だったこともあって、まだリーダーになりたてで、頑張ることで精一杯だったジャックさんは彼女に苛立ち、また他の生真面目なスタッフたちとも折り合いが悪くなり、更に仕事がぎこちなくなってしまう悪循環に陥っていました。
そしてとうとうある日。ガスールパッキングの時に計量ミスという大失敗をし、数箱に重量が表記と違うものが混ざってしまったのです。
幸い、箱詰め前の検品で他のスタッフが気づき、それが出荷されることはありませんでした。
ちなみにこの問題発見は、担当スタッフが、パッケージを手に持った違和感で気づいたのです。
既にタイ人スタッフたちの目や手の感覚の素晴らしさにことごとく驚いていた私ですが、その時は畏怖の念さえ覚えたのでした。

取るものも取り敢えず石鹸もクリームも全ての作業を止め、全員で各袋の重さを量りなおし、問題のあるものは例え見かけがどんな綺麗でも、ざっくりとハサミで封をあけて中のガスールを取り出す、まるで大切に育てた動物を屠ってお腹を開き、臓物を搔き出すような、切なく苦しい気持の作業が数時間続きました。
終わった時には、誰もがほっとししながらも、やはり重たいものを飲み込んだような疲労感に包まれていました。
それでも作業を終え、失敗をしてしまった彼女を見て私の口をついて出たのはまさしく「マイペンライ」だったのです。
当時の私は殆どタイ語ができず、辞書から文字を書き写したり、時には絵で指示をするといった風でした。
気持が言葉にできず、頭も胸も破裂寸前のような日々です。その中でとっさに出た「マイペンライ」は、誰でも失敗はある。気持を入れてやり直せられればいいのだから、がんばりましょうよ。何しろ問題は解決できたのだから。そんな思いから出たものだったのです。

けれど、この「マイペンライ」はその時、予想以上のショックを周囲に与えたようでした。当事上司だった日本人には「そんなだから、お前はタイ人に舐められるんだ!!もう日本へ戻れ!」と激しく叱責されました。
一方、このところ、社内の評価は厳しく、更にこんな大騒ぎを起こした自分の解雇はもう決まりだろうと、俯いて暗い顔をしていた彼女は、この拙い「マイペンライ」にはっと息を飲んで目を上げました。
「本当にいいんですか?怒らないのですか?」と聞くような彼女の顔色と目には、少なくとも私には前の悩みを抱えた頃よりも微かな明るさと力が感じられ、それならば一緒に名誉挽回してやろうじゃないの、と思うに足るものでした。
今でこそ、厳しくも大きな包容力を体現したようなジャックさんでも当時は問題に怒りを収めきれずにいました。
そこに、誰にでも失敗がある、それを一緒に越えてこそ良いチームになるのではないだろうか。皆には大変な思いをさせてしまったけれど、どうかわかって。そんな事をつたない英語や辞書から書き出したタイ語を指差し、根は情が深く優しいジャックさんもどうやら納得してくれ、息が詰まるような一日が終りました。
明けて翌日。
幸い、上司が言ったように、「マイペンライ」発言に私を軽んじる人はタイ人スタッフには居ませんでした。そして件の彼女は、私と目があうとちょっと気恥ずかしそうに笑い、仕事にも少しずつ気持が入るようになりました。そして、事件を誰もが忘れたような頃には、ジャックさんも「彼女はとても変わってきたの!とても良い働きをしてくれるの!」と嬉しそうに話してくれるようになりました。
もちろん、彼女を支え、変えた功労者はジャックさんと仲間たちなのです。
この時、もし私が上司の烈火のような怒りを恐れ、彼女が恐れたような指示をしていたらどうだったでしょう。
彼女がその夜、家で呟いたかもしれない「マイペンライ」は苦い、暗い気持を紛らわすための響きになったのではないでしょうか。
ともあれ、この件より私は、問題があったらまず「マイペンライ」と言い、自分も皆もまず一息つかせてから、問題解決にあたることをモットーにしたのです。

そこから、もう随分年月を経てつい最近のことです。
少々問題が発生したものの、スタッフ自身の力で見事解決した事をジャックさんが報告しに来た時、私たちは、久方ぶりの重さを渋い気持ちで受けとめながらも、対応にあたったメンバーたちの的確で勇気ある振る舞いや判断や言葉は、素敵で嬉しくて、涙ぐみ、笑ってしまい、なんとも奇妙な分裂的な多幸状態に落ちいっていました。
「おやおや、問題があったっていうのに、あの人たちったら笑ってるよ、どうしたんだろうねぇ!」
ミーティングの成り行きを気にしているエー・ドイさんは、作業しながら、苦笑いするほどに。
いずれにせよ、問題は無事解決され、それに対する、各担当者の綿密な対応の発案・提案もバッチリ文句無し。むしろ、製造ライン全体が効率よく引き締まった感さえあります。
ジャックさんからの報告を聞きながら、私の頭の中にはあの失敗が思い出され、そこからそれぞれが重ねてきた経験と誠実さを思っていました。

赤い目のジャックさんが、怒ったり泣いたりしながら報告を終え、最後に言いました。
「実は、私、ずーっとアサエさんが言う”マイペンライ”が重かったんです。何かある度に、大丈夫!マイペンライ!ってニコニコ言うでしょ。その度に私は、自分達の失敗なのに。。本当に大丈夫かなって首や胸がきゅーっと苦しくなって。だからいつも、大丈夫かな。今日はいいかなって、毎日とても緊張してきたんです」
少し微笑み始めたジャックさんが、またそこで顔を真っ赤にし、堰を切ったように涙をポロポロこぼし始め、私も内心いささか動揺します。
「ねえ、ジャックさん。
でもね。なんてことしたの! どうするの!ってカンカンに怒ったってさ。かえって皆緊張して考えられなくなるし、怒られるのは嫌な気分になるからって、問題を隠したくなったりするのが人の気持ちじゃない? 大丈夫! まず落ち着こうよ!それから考えてやり直せば大抵のことはなんとかなるよ。って皆で言い合った方が、良い方法を思いつくじゃない? それに、問題を解決する方法を考えて、マイペンライにするのが私の仕事だよ?」
確かに、会社で起きた問題について最後に責任を負うのは私だけれどね。本当はね、ジャックさん。とっくに、あなたたちは充分に問題解決の知恵も心の強さを手に入れたし、私こそみんなに首や胸が苦しくなるのを、どれだけ減らしてもらったのかわからないのだけれどもね、と心の中で思いながら答えます。
そう。一見、楽天的でちょっぴり無責任という印象の「マイペンライ(大丈夫)」というタイ語ですが、実は、タイの人たちにとって意外と重い言葉であり、その重さはなかなか忘れがたいものなのです。少なくとも、我が社では。

そしてかつて事件のくだんの彼女ですが、その後、孫もできて、おばあさんにも育児休暇を取ってもらう制度のきっかけにもなってくれました。これもタイの家族のありようを身近に感じ、それぞれの人生に合わせた就労環境を作るはじまりでした。
さらに彼女はまだ若い会社での、初の定年退職のモデルケースになりそうでしたが、残念ながらその手前、今年一杯で退職します。年齢的な影響で、少し本気で持病の療養をしなくてはならなくなったためです。
彼女からの申請と相談の折、ジャックさんは彼女の経験を惜しみ、忙しい時にはもし体調が良ければお手伝いに来てもらえますか?とお願いし、彼女も、ええきっとね。とちょっと涙ぐみながら答えてくれました。
今は、私とタイという場所をぐっと近づけてくれた彼女との経験と、これまでのどこか不器用でも愛おしかった尽力に感謝しつつ、その健康を祈りたいと思います。(Asae Hanakoka)

2014年11月4日火曜日

モロッコ出張 business trip to Morocco

会社のスタッフたちにしてみれば、私はモロッコで遊んでいるようにしか見えないかも知れませんが、それはFB等で楽しげな写真ばかりアップするから。今回の目的のひとつは、私たちの製品の原材料でもあるアルガンの実の植生、収穫、圧搾、集荷などの現地調査です。仲買の人たちや実から胚を取り出す女性たちの作業、オイルを圧搾する人々、などなど様々な人々に会い、話を聞き、現場を訪れています。
今日はアルガンオイルの仲買を行うアガディールのファウジさんに会いにゆく。ファウジさんは大学では医学部で医者を目指したが、途中農業に興味が移り(本人いわく「単位が足りなくて」と自嘲する)、農学部に入り直す。卒業後は政府の仕事に従事したが(モロッコでは大学を出た技術者の多くは国の仕事に従事するのだとか)、その後「プライベートの仕事」をしたくて自分で生産農家に対するオーガニック農法による農業指導などにあたり、そのなかでアルガンオイルの製造も手がけるようになったとのこと。
寡黙ながらも、話が専門領域に及ぶと生き生きと語り出す非常に知的な人物で、ヨーロッパなどに自身の製品を輸出するなどビジネスマンの面も併せ持つ。近年アルガンオイルによって貧しい農家には現金収入の道を開いたが、こうした技術者、農業指導者、ビジネスマンの存在はやはり重要。


彼の会社で話を聞いたあと、自宅へ昼食に招いてくれた。新興住宅地の4フロアのタウンハウスで祖母と両親、弟、二人の娘とで住んでいる。娘二人はモロッコ語の他、フランス語と英語を解す(上の写真は私たちのモロッコのパートナー ラシッドさんと今回ドライバーをしてくれたハリッドさんの二人に囲まれた下の娘さん:さながら美女と野獣)。
こちらの人々は生活も仕事も一族で行う場合が多く、家も大人数で住む。私たちが通された応接室と思われる部屋はかなり広く、テーブルが6卓。壁ぐるりにソファが設えてある。こちらではもてなしも男性が一切執り行うため、料理の配膳から後片付けまで全てファウジさんと弟の男二人でやっていた。
外はかなり暑く日差しも強かったけれど、家の中はかなり涼しい。ぶ厚いレンガの壁は外の熱気が室内に侵入するのを防ぎ、レースのカーテン越しの窓は直射日光を防ぐ。エアコンなど無くてもひんやりと涼しい。

アルガンの実の仲買人にはいくつかのタイプがあります。ひとつは大学を出て生産者の農業指導にあたり、品種や品質、圧搾技術の改良と研究を日々行い、生産者の収入改善を図りながら日本や欧米のコスメティック企業を相手にビジネスを行うMr.ファウジのタイプ。

そしてもうひとつのタイプが、ウィッサエラ郊外の村の仲買人ハッサンさん。彼は村で雑貨店を営みながら周辺の村の女性たちが持って来るアルガンの実を買い受ける。多くの現金を持たない彼女たちは、アルガンの実と交換したお金で日用品を買う。アルガンの実はお金の役割も果たしており、実を収穫するとハッサンさんの倉庫に預け、生活に必要な量だけ換金して行く。だから村には銀行はない。
ハッサンさんは村の誰からも愛され信頼され、村のため自分の家族のために様々な仕事をしてきた。かつては街までの交通手段を持たない村の人々のために、自分の車で乗り合いバスをやっていたこともある(もちろん運賃は貰うが都市部の相場では全くない)。年期の入ったこの75年式フォードのバンは、車というよりもはや民具。私たちが移動に使ったメルセデスのワゴン車は、なぜかハッサンさんの村で彼の旧型フォードに乗り換えた。その先の未舗装の悪路に入り、車交換の理由はすぐに判明、必死に手摺りに掴まりながらハッサンさんの家へ向かう。

色々見学させてもらいつつ話を聞き、昼食を振る舞われる。前菜のモロカンサラダから山盛りのパン、自家製の蜂蜜、ヨーグルト、そして定番のミントティ。もうお腹いっぱいと伝えるが「いやいやデザートがあるから食べてゆけ」と出て来たのは大きなタジン鍋に山盛りのクスクス。これはデザートじゃない、主食だろう! と順番の間違いに一同苦笑するが、振る舞われたものは口を付けねばならない。満腹だけれどでも美味しい。そのあと更に、石榴やオレンジ、バナナにリンゴなどてんこ盛りのフルールが出てもう限界。とにかく客人をもてなしたい、振る舞いたいという気持ちは十分すぎるくらい伝わる。
帰りは車で8時間かけて海沿いのリゾート地アガディールへ向かう。移動の際も何度かハッサンさんから電話が掛かってくる。内容は大した用事ではない。「お土産にもらったあのお茶は旨いな!」とか「もう着いたか! 気をつけて帰れよ」とか頻繁に電話してくる。移動中ラシッドさんは歯痛で痛止めの薬を飲んでいたが、それを本気で心配した彼は「いい歯医者がいる。紹介しよう!」とのことだが、ラシッドさんはマラケシュの人間、300km離れたハッサンさんの村の歯医者には通えないのだ。
そういえば我々に対しても、「どこから来た?」との問いで「日本人だが普段はタイに住んでいる。今回もタイから来た」というが世界地理に疎いらしい。「タイはどの辺だ? 遠いのか?」というので「ずっと遠くだ。東南アジアだ」とラシッドさんがiPhoneのGoogle Mapで説明する。「ああ、そこなら知っている! おれの姉貴が住んでるよ」とのこと。しかしラシッドさんによるとハッサンさんのお姉さんが居るのはリビアだという。モロッコ以外の外国はみんな遠いところであって、細かいことは頓着しない。彼の愛車にはなぜかAppleのステッカーが貼ってあるが、MacもiPhoneもiPadももちろんない。
彼は村の皆に頼りにされ、イスラムの教えを守り、村人と私たちのために良いアルガンの実を集めてくれ、子供たちと両親と祖父母を愛し、楽しく豊かに暮らしていた。愛すべきハッサン。

今回ラシッドさんに紹介してもらったファウジさんとハッサンさん。共に対照的な二人ですが、どちらも大切な私たちのパートナーとなりました。(Jiro Ohashi)