2014年8月6日水曜日

スワンカロークと宋胡禄 Sawankhalok and sunkoroku

今回は、私たちの会社がある北タイ周辺の歴史、ハンドクラフトの今と昔、ものづくりの源流についてのお話です。

チェンマイを含む北タイ周辺は昔からハンドクラフトの盛んな地域です。織物や木工工芸、竹細工に金属工芸など、昔から生活に必要なものはたいてい自分たちで作ったと言います。農作業の合間のそうした作業は都市部から離れた山岳民族の村などでは、今も自給自足の生活として息づいているようです。家の軒では鶏や豚や牛を飼い、ついでに犬や猫も飼って養い、河では魚を獲り、畑や野山で果物やハーブを採り……。などというと私たち都市部に暮らす者としては、ある種の憧れというか理想の生活にも思えます。しかし今の時代、テレビやネットの膨大な情報に晒されつつも現金収入の乏しい生活は、相応の覚悟と意思が必要です。

「山岳民族の村」の多くは観光地化され、いわば仕事着として色鮮やかな民族衣装を身につけ、訪問者をもてなし一緒に記念写真に収まる現実も一方であるでしょう。また働き手の多くは都市部の建設現場などに出稼ぎに行くのも普通でしょう。
とはいえ、たとえ家の軒先に巨大なパラボラアンテナが立ち、インターネットに接続し、日本製のピックアップトラックで仕事場(現場)に出勤するようになったとしても、彼らの手先の器用さと伝統的なものづくりの知識、そして慎ましい生活観は根本からは変わることなく、生活用品としてのハンドクラフトから現金収入の道として、土産物、民芸品として、地場の産業として命脈を保つ物たちも多くあります。

陶器もそのひとつです。タイでは、淡翠色の釉に細かい貫入が特徴のチェンマイのセラドン焼や、色とりどりの上絵具で絵付け、焼き付けされたベンジャロン焼などが有名ですが、どちらも雑貨や土産物として人気です。海外の雑貨や陶器のメーカーが、高い技術と安い製造コストに惹かれてタイにOEM製造を依頼するケースも多いようです。北欧の世界的に有名なインテリア雑貨チェーンで売られる陶器も、実はメイド・イン・タイランドという例なども珍しくありません。

欧米や日本でも人気のタイの陶器ですが、こうしたタイ陶器の発祥の地はどこかというと、それはチェンマイから南に約200kmほど下ったスコタイです。スコタイは13世紀から15世紀にかけてこの地に栄えたスコタイ王朝の首都です。その遺跡群は現在世界遺産にもなっており、空港も整備され、観光客が絶えません。
スコタイ王朝はタイ族による初の統一王朝といわれています。南宋や元、そして明へと続く当時の中国や、アンコールワットを築いた後のカンボジア、クメール王朝、その後にタイに勃興するアユタヤ王朝など、周辺地域とも深く関係しており、今に続く東南アジア地域を形成する歴史的にも文化的にも重要な位置を占めた王朝です。各国の歴史教科書にも記述されており、観光地としての世界遺産だけでなく、文字どおり歴史に名を残しています。

スコタイ市内から車で北へ60kmほど行ったところにある街シーサッチャナライは、今でこそ平凡で鄙びた地方都市ですが、ここはかつてのスコタイ王朝の副都です。ここにも多くの遺跡群が残っており、同じく世界遺産に指定されています。市内にはバンコクまで続くチャオプラヤー河の支流、ヨム河が流れており、その周辺から採れる良質な陶土を原料に、タイ陶器の源流となったスワンカローク焼が作られました。
なぜこれが「シーサッチャナライ焼」ではなくまた「スコタイ焼」でもなく、「スワンカローク焼」と言われたかといえば、スワンカロークの河港が周辺の村で焼かれた陶器の集積地であり積み出し港であったから。当時の河川は物流の大動脈であり、今でいう高速道路、ロジスティックの要です。
ここからヨム河を下りチャオプラヤー河に入り、今のバンコク近辺シャム湾まで運ばれ、更に船に積まれて東南アジア各国に輸出されたといいます。
これらは室町〜江戸時代には遠く日本にも運ばれ、当時の茶人たちに「宋胡禄」焼として珍重されました。宋胡禄(sunkoroku)はスワンカロークの当て字です。鉄絵による褐色の装飾が施された掌にすっぽり収まる小さな柿香合などは有名です。古美術陶芸に詳しい方であれば、当時の宋胡禄は垂涎の的でしょう。
ちなみにその姿から「柿香合」と呼ばれていますが、実際はマンゴスチンの実を模したものです。日本には当然マンゴスチンはありませんから、これは身近な果実として柿の実に見立てた呼び名です。

スワンカローク焼が作られたのは13世紀、スコタイ王朝の繁栄の礎を築いた三代目の王ラムカムヘーン王の時代です。それまでスコタイ周辺ではモン焼など、素朴な無地の素焼きが主流で、それらはあくまで生活実用品であったといいます。それがこの時代、中国から陶工たちを招聘し、その優れた陶芸技術と鉄絵による装飾で芸術的な陶器を起こしました。この想像力豊かで、デザイン的にも技術的にも優れたこれらの陶器は、主要な輸出産品となり、タイ初の産業ともなりました。
ラムカムヘーン王は陶器の他にも、仏教の振興や中国との交易、クメール文字を元に初のタイ文字を発案するなど、文化芸術面でも目覚ましい成果を上げています。王朝の絶頂期です。

そんな栄華を誇ったスコタイも15世紀半ばにアユタヤ王朝によって倒され、そして遠く日本にまでその名の聞こえたスワンカローク焼(宋胡禄)も、17世紀にはなぜか突然途絶えます。詳細はわかりませんが、16〜17世紀のタイ北部は、チェンマイのランナー王朝しかり、スコタイを併合したアユタヤ王朝しかり、近隣のビルマから度々侵攻を受け、戦いの連続であったといいます。
タイの陶器を芸術品の域まで高めたスコタイの陶工たちは、突然その窯を放棄し、スワンカローク焼は文字通り突然絶えました。

それから400年近く経った今、スワンカローク焼はかつての形や図案を模した民芸品として再興され、遺跡の周りの土産物屋や、博物館の売店などで細々と売られています。とはいえ現在に残る往年のアンティークと比べるとその差は歴然で、土産物として人気(?)の皿や碗に施した独特の魚の絵柄などは、今風に可愛くデフォルメされ、さながら漫画状態『およげたいやきくん』状態です。
もちろんこれを良しとして買い求める人もいるでしょうが、それはやはり土産物レベル。お寺の名前の入ったキーホルダや遺跡の絵柄の刷られたマグカップと同列です。かつて芸術の域まで登り詰め、日本の茶人たちが憧れ、タイ陶器発祥の地としてその名を馳せたかつてのスワンカローク焼とは別物と思います。

それでも私たちが驚くのは、その土産物を作る職人さんの手の確かさ、技術の高さです。いかに細々とした需要しかないとはいえ、その絵柄が今や安易で力の無いものだったとしても、彼らが器を作るベーシックな部分で、この地のハンドクラフトの伝統の豊かさに触れる瞬間があります。
シャープな高台の切り方や、ぴったりと呼応する蓋と身の合わせの処理などを見るにつけ、そこにかつてこの地で花開いた美しく高度な焼き物を生んだ陶工たちの末裔を見るのです。

民芸品でも美術品でも構いません。実用品でも嗜好品でも構いません。物の価値は、まずそれを作る人たち自身が十分に理解することだと思います。作り手自らその造形や図案や質感に美しさを見い出し、それを生み出す自らの技術に誇りを持ち、そしてトータルで高い品質を実現することで生まれるものだと思います。
私たちは北タイの歴史、文化、そして伝統に敬意を払いつつ、そして人々の技術やその知識の豊かさを借りながら、私たちなりの新しい製品、新しい価値を作って行けたらと思う今日この頃です。(Jiro Ohashi)