2014年5月21日水曜日

水の心と晴天の霹靂 nam chai

昨日、タイ全土に戒厳令が発令されました。まさに青天の霹靂の事件です。
しかし、タイの戒厳令は、まさに「タイ的」ともいうべき独特のもので、日本人が「戒厳令」と聞いて想像するような緊迫感はありません。
首都であり、デモと政争の火中にあるバンコクでも大通りは若干寂しくなったものの、軍は特定の場所以外には居ないということですし、まして田舎町のチェンマイでは普段どおりの平穏な時間が流れています。強いてそれを感じる瞬間があるとすれば、特定の政党寄りだったTVやラジオ番組の放映が中止したこと、通常のプログラムを放映しているTV局でも定期的に軍からの発表を流すことでしょうか。
とはいえ、市場の賑わいも屋台の和やかさも、スタッフたちの仕事ぶりも、路上の犬や猫たちも、これで良いのだろうか? という不謹慎な不安さえ湧き上がってくる、いたって「普通」のチェンマイです。

そして今日も穏やかに一日が始まったとおもいきや、我が社でも事件が起きました。
ジャックさんが例の困惑顔でやってきました。とはいえ、若干余裕があり苦笑気味です。
こちらも、少し余裕で対応です。
というのは、コイさんの独立のように、スタッフの身上にまつわる「小さな事件」が時折起きるのですが、ジャックさんの表情からすると、今回もどうやらそんな内容かな? と、何となく察しがつくのです。

「ジャックさん、どうしたの?」
「ゲーちゃんが今日で2日無断欠勤なんです。普段は体調が悪い時もきちんと連絡して来る人なのに。。」
ゲーちゃんとは、この春入社したばかりの20代の新人さんです。
「そうねぇ。ゲーちゃん、真面目な子なのに」
こちらもジャックさんにつられて眉間にしわが少し寄ってしまいます。
「それが、同期で仲良しのユイちゃんの話だと、家に様子を見に行ったら旦那さんはいるんだけれど・・」
「うんうん」
「旦那さんによると、かなり盛大な夫婦喧嘩をしてしまって、それが原因で、ゲーちゃん実家へ帰ってしまったって・・」

ここで、私と一緒に心配顔で話しを聞いていたデスクワーク組は一同笑いだしてしまいました。
もちろん、普段おっとりしたゲーちゃんが飛び出す程の胸の内とは何かを充分心配しながらですが。
ジャックさんも「困りました」と言いながら、つられて苦笑いをしています。

夫婦喧嘩はなんとかも喰わないと言いますし、そんな事で無断欠勤する人なんてと、切り捨てる人もあるでしょう。
確かに少し幼稚なんじゃない? とも言えそうですが、我が社では少数派の20代のゲーちゃん。
顔つきも心持ちも他のスタッフたちに比べればはっきり言って「まだまだ子供」です。
普段は辛抱強い彼女が、そのくらい思い余ってしまったのです。

可愛いく思えるやら、困惑やら、若干の呆れやら、色々な気持が入り交じった笑い声の中、ジャックさんは、
「とりあえず、ユイちゃんがゲーちゃんに電話をして、仕事を続けたいかどうか聞きます。
それから、週末になっても帰らなかったら、ユイちゃん、ゲーちゃんの実家へ行ってみるそうです。
ともあれゲーちゃんの気持が落ち着くまで、処遇のことなど少し待ってもらえますか?」
「了解、マイペンライ。ゲーちゃん、とても良い仕事をするし、早く落ち着くといいね」
「ありがとうございます。ジャックからも、引き続き連絡をしてみます」
「ところで、ゲーちゃんの実家はどこなの?」
ジャックさんの口から出たのは、チェンマイ郊外の、自動車でも一時間はかかる山を越えていかなくてはならない地名でした。
貴重な休暇、そしてガソリン代だってバカになりません。なのにそこまでわざわざ様子を見に行こうというユイちゃんにも、一同絶句しつつ胸が熱くなってしまうのでした。

実は、こうした出来事はゲーちゃんが初めてではありません。
思春期の息子とのコミュニケーションに悩む余りあわやアルコール中毒になりかけたり、持病に悩まされたり、やはり夫との折り合いに行き詰まったり、重病の家族の介護に疲れてしまったり。。。事情はさまざまですが真面目な人が多いせいか、思い詰めて職場にも出て来れなくなってしまう人がまれに居るのです。
場合によっては、そんな心の弱い人は社会人とは言えないのではないか? と言う声もあるかもしれません。納期に追われる会社にはありがたくない存在かもしれません。
けれど、同時にそうした困難は誰もが見舞われる可能性があるではないか? とも思うのです。
実際、こんな時のジャックさんの口癖は
「誰にもアクシデントは起こるし。病気も老いも誰にも来ることだもの」
です。
きっと、彼女のこんな風な一人一人をしっかりきめ細やかに受けとめる結果が、適材適所のスタッフ・マネージメントやみんなのジャックさんへの篤い信頼に繋がっているのでしょう。
それにユイちゃんやジャックさんのような情の濃いタイの人たちの素顔を見ていると、この心身の率直さこそむしろ健やかに見えてきますし、タイの人々の心のありよう、生活の姿が垣間見えるようで、私には親しく思えてならないのです。

そこで私たちも、時にはそれをきっかけにして、会社として生活を守り就労の機会を保障しながら介護に専念してもらえるよう、まだ充分でなかった、介護休暇制度を改めたこともあります。
また、今回のような家庭の事情に対しては、まず心の整理をする時間の猶予を作り、職場復帰ができる方法を探ります。猶予の間、その人に近しいスタッフやジャックさんが電話をしたり、家を訪問したりして、その胸の内に耳を傾けます。そして「やっぱり働きたいな」という声が出るのを待つのです。
なかには話すうちに「やっぱりこんな事じゃダメですね! 少し時間をいただけますか?」と、お寺で2週間ほど修行をし、さっぱりした面持ちで見事復帰した人もいて、これはやっぱり本物の仏教の国だとしみじみしたものです。
いずれにせよ、殆どの人たちが無事復帰し、これまで以上に気持よく働いてくれますし、仲間たちも気持よく復帰を受けとめてくれています。

タイには「ナム・チャイ」という言葉があります。直訳すると「水の心」です。全てを潤し、受けとめ、時には水に流す、そんな大きな心という感じでしょうか。実際の意味は同情や思いやり、共感であり、相互扶助やボランティア、寄付といった実際の行為をたいてい伴います。
なにかに困っている仲間たちに対する、ジャックさん等の様子を見ていると、外国人である私にも「ナム・チャイ」の実際が見えてくるようです。
週明けになるか、もう少し先になるかはまだわかりませんが、今は皆が運ぶ美味しい心の水によって、ゲーちゃんの悪い熱がすっきりと冷め、いつもの涼しい顔で、会社に現れる事を願うばかりです。

戒厳令の方は、今は軍が政府派と反政府派を話し合いのテーブルにつけようと調停中とのことで、今のところは私たちの生活に影響はおよぼしていません。
むしろ、今回は個人の小さな事件の方が、大きな影響をもたらしたようです。
国という大きな事柄はもちろんですが、それを形作る個にも様々な悩みや重さがあるのです。(A.H.)

2014年5月8日木曜日

はじめての石鹸づくり beginnings is essential

正直なところ今まで石鹸というものへの熱はそれほど高いものではありませんでした。強いて言うなら、肌の弱い私は、液体のボディソープはメーカーによっては赤く発疹が出たり痒くなったりするので、固形石鹸の方が私の肌には合っているのかな、という程度でした。
ついこの間まで石鹸についてはその程度の関心しか持たなかった私が、先日、生まれて初めて石鹸を自分の手で作ることになりました。
 まず初めの衝撃は、「石鹸はオイル(油)からできている」ということ。スーパーマーケットなんかで身近に売っている食用のオイルが使えるその手軽さに驚き、と同時に、「どうしてオイルが原料のもので汚れが落ちるの?」と新たに疑問も生まれました。全くの素人の素朴な疑問です。

ここSAL laboratoriesでは、「今日は、ガスール製造の日」や「石鹸用オイル計量の日」や「石鹸を混ぜる日」など、細かく作業のスケジュールが組まれています。それ以前の行程も綿密で、日本からのオ−ダーを受け、モロッコやトルコやタイ国内からそれぞれ原材料を調達し、オイルの品質をチェックし、出荷日に合わせて作り始めます。
これは書くほどに簡単な内容ではないのです。オーダーの調整・輸入に向けての準備・到着日の計算・品質のチェック・・・、そういった数えきれないほどの行程を経て、さらにガスールやクリームなど他製品の製造ペースも見ながら、ようやく石鹸作りの作業スケジュールが組まれます。ここまでたどり着くまでにも、各国の原材料それぞれの担当者をはじめ、輸入に向けてもろもろの書類の準備を担当するスタッフ、在庫や品質担当のスタッフなど、大勢の協力により成り立っていて、これらの誰か一人でも欠けるとできなくなります。まだ働いて日の浅い私にも、国を超え、様々な機関と連携してのチームプレーの難しさは理解できます。

少し話がそれましたが、このようにたくさんの人がきちんとした仕事をして準備をしてもらった材料を使って、私も石鹸を作りました。これも大切な現場研修です。
原料となるオイルや苛性ソーダは前日のうちにきっちり量って準備をしておきます。私たちの製品「アルガン石鹸」にはその名前にもあるようにアルガンオイル、それからエキストラバージン・オリーブオイル、ココナッツオイルの3種類が使われています。これらのオイルが計量されて一列に並ぶと、赤・緑・黄ととてもきれいなのです。
一度の石鹸作りで145gのアルガン石鹸が320個できるのですが、オイル計量の際には1gの単位まで一滴一滴調整します。根が大ざっぱな私は、「320分の1gだったら大した違いはないのでは」なんて思ってしまいましたが、オイル計量担当スタッフ(スタッフなら誰でもやらせてもらえる作業ではありません。きちんと役割が決まっています)の目は真剣そのもの。
精密なグラム秤の数字を睨みながらオイルの入った容器を傾けたり、上げたり。ピタッと一度で決まり、「さすが神業!」と思わせるときもあれば、5gオーバーで悔しいため息を漏らしたり、とオイル計量からも仕事に対する真剣味がひしひしと伝わってきます。
石鹸は化学反応の産物です。鹸化に必要な苛性ソーダの量はオイル(油脂)1gに対してミリグラム単位で厳密に決まっています。たとえ小さな誤差でもその仕上がりには大きな影響を与えます。

石鹸生地を流し入れるステンレス製の長方形の容器もピカピカに磨き上げられ、いよいよ緊張の時間、原材料オイルと苛性ソーダを混ぜる時が来ました。こればかりは人に手伝ってもらうわけにもいかず一度混ぜ始めると20分間は手を止めることはできません。「ここで失敗したら今までの数えきれない人たちの努力を無駄にする」と思うと、それだけで手が汗びっしょりです。
8人のグループが2人ずつ、リーダーの合図を待って5分間隔で混ぜる作業をスタートしてゆきます(この5分差にも意味があります)。もう遥か昔、学生時代の「鉛筆を持って、はいスタート」という試験の緊張感がデジャブで蘇りました。最初は苛性ソーダとオイルをしっかり混ぜるために力を込めて、様子を見ながら徐々に混ぜ方も変えていきます。

「ほら見て。泡が出てきてるでしょ、少し力を緩めて」と言われ、慌てて周りを見ると、みんなの石鹸生地は卵たっぷりのカスタードクリームのようなとろりとおいしそうな仕上がりです。変な所に力が入って腕が痛いのを我慢して、ようやく長い長い20分が終わりました。このできたてほやほやの生地をステンレス製の容器に間髪を入れずに注ぎ分けます。ここもオイル計量の時と同じでピタリと一度でグラムを合わせます(いえ、合わせてもらいました)。
これも初めて知りましたが、できたて(混ぜたて)の石鹸は熱いのです。これはオイルに苛性ソーダが反応して熱を発生させているからですが、注ぎたての石鹸生地はステンレス容器を思わず落としそうになるくらい熱くなります。
これを温度計で頻繁に測って適温に保ち、一晩置いたら切り分けます。色は前日よりも少し白っぽくなったような、まるでホワイトチョコやチーズのような感じです。とても美しいので思わず触りたくなりますが、「危ないよ、肌に触れると痛痒くなるよ」と言われ、思わず手を引っ込めました。このあと、約1ヶ月かけてゆっくりと鹸化熟成(オイルが石鹸に変化)していきます。私が作った40個の石鹸たちも涼しい部屋でどんな反応をしているのでしょうか。

この研修作業と同時期に「石鹸とは何ぞや」というレクチャーも社内であり、ただいま石鹸について勉強中です。石鹸と一口に言ってもとても奥が深く、調べれば調べるほど迷宮に迷い込みそうですが、グルグル回る洗濯槽やお風呂場でいくら泡を見つめても答えは出てきません。ひとつずつ知識を深めていこうとあらためて思いました。(katsuyama

*写真は、温度湿度を24時間コントロールされた専用の冷暗所で鹸化熟成中の石鹸たちです。

2014年5月4日日曜日

会社とコスト towards a sustainable company

私たちの会社は、スタッフの福利厚生面の整備にはかなり力を注いでいます。退職金や有給休暇制度はもちろん、スタッフのほとんどが女性ということもあり、産休や育休に関しても出来る限りのサポート体制を敷いています。
こちらの人々は家族としての繋がりがとても強く、子供は家族みんなで育てます。育児休暇は赤ちゃんを産んだお母さんだけでなく、自分の娘が子供を産んだ際にも(新米おばあちゃん?にも)育児休暇が取れるよう、その適用範囲を拡げました。
就業上のさまざまな規定を策定する際にも、タイ人マネージャーに意見を聞きました。
「こういう決まりにしたら皆はどう思うかな?」
「私はもちろん意味はわかります。でも皆はどうでしょう?」
「手当は厚くしたいと思います。種類はどうでしょう? 多いと感じる?」
「手当はもちろん嬉しいけれど、貰う額は同じでもお給料(基本給?)が多いほうが皆喜びます」
「社員のボーナス算出方法はこのように考えています」
「よい算出方法ですが、パートさんも同じ方法で計算して貰えたら嬉しいです」

こちらは日本とは違った独特の労働観、生活観、家族観があります。単に日本の仕組みをそのまま移植したのでは、まずその実効性は望めません。タイ人スタッフたちにも繰り返しヒアリングを行い、実地に話し合いを重ねましたました。スタッフたちもただ自分たちの希望、要求を言うだけではなく、あくまで持続可能な会社をイメージしているようです。これはとても大切なポイントです。
「給料やボーナスが沢山貰えるのはもちろん嬉しいけれど、でも会社が無くなってしまったら元も子もありません」とはっきり言います。

タイで良く言われるいい方として、取りあえずここで(日本人の会社で)働いてスキルを身に付け、ある程度経ったらもっと給料の良い(欧米系の)会社へ移り、そこでお金を稼いだらしばらくして自分で会社(商売)をやる。といった技術者やホワイトカラーの転職パターンがあります。こうしたジョブホップの対象と捉えられるうちは、会社として良い結果は全く得られないでしょう。

タイでの一般的な給与形態は、都市部の外資や大企業は別として、考え方の基本は日給だと思います(これを2週間に一回、1ヵ月に一回という具合にまとめて受け取ります)。月給や時給といった考え方はあまり馴染まないようです。これはチェンマイという地方都市だからかもしれませんが、正社員やパートタイムといった就業形態にもそれほど強い拘りはないように思います。
週末は農業をする、朝は家族が市場に出す屋台を手伝うなど、あくまで会社が代替不能で唯一の存在ではないということです。会社を生計の柱として大切にしつつも、もっと重層的で多様な労働観と生活感があります。もちろん社員はそれなりに高いステイタスではあるようですが、かといって「なにがなんでも正社員!」といった生活設計上の切迫感はありません。強いて言えば私たちの会社の場合、パートタイムは一般従業員で、社員は各部門のリーダーさん、といった感じでしょうか。
正社員だの非正規だの、パートだのアルバイトだのと拘らない社会は、気持ちの上でも本当に楽だと思います。もちろんそうした就業形態の差異による不利益を蒙らない社会であることが前提です。私たちの会社では、福利厚生制度は社員だけでなく、パートタイム従業員にも同様の制度を適用しています。

一昨年のタイ国政府による最低賃金の引き上げ、所謂「300バーツ問題」も、これは「日給をすべて300バーツ以上に引き上げなさい」というものでしたし、この辺もまた日給単位の労働観、パートタイムも念頭においた施策とも感じます。
とはいえ実際のところ、バンコクも地方都市も一律に全ての産業で日給300バーツが本当に実現できているかといえば、それは大いに疑問です。いかに法人税の減税とセットだとはいえ、地元の中小企業や個人商店などで、景気や市場に特に大きな変化がないなか、人件費のみ別枠で上げるというのは些か乱暴です。また地元企業のなかには実際には支払えない会社も数多くあります。これも外資や大企業を念頭においた建前上の施策なのでは? と勘ぐりたくもなりますが、実際のところはわかりません。
しかしそこは柔軟で緩やかな国、地方では建前は建前として従業員と雇用主で話し合い、300バーツ以下の現実的な(仕事に見合った)日給で雇用関係を続けるところもあります(違法ですが)。
とはいえ私たちは外資であり政府から認定を受けたBOI企業です。社員はもちろんパートタイムから学生アルバイトまで、当然のこと全従業員の日給は300バーツ以上に引き上げています。

正直いってここチェンマイで、私たちの会社と同様の給与制度、福利厚生制度を設けている会社は、おそらくあまりないとも思います。理由は簡単です。コストが掛かるから。
ではなぜ私たちはこうしたコストを掛け、福利厚生に力を入れ、社員とパートタイムの待遇面の区別も撤廃するのか?(実際、法律上は区別してはいけません) 当然会社は慈善事業団体ではないので、損得勘定もありますし社会的道義的「正義」のためだけに、スタッフの待遇を厚くするわけではありません。だいいちそうした一時の満足感や志のみでは持続できません。
理由は簡単です。コストに見合った十分なリターンが得られるからです。

私たちの作るコールドプロセス製法の石鹸や、オイルとミツロウから作るクリーム、モロッコのクレイ「ガスール」の製品化などは、すべてスタッフたちの手で丁寧にハンドメイドされています。陶器の器やヘンプ布を使ったパッケージなどもスタッフたちの手で行います。工場の製造ラインのスイッチをカチャンと入れれば、機械が作動して勝手に出来上がる製品たちではありません。

私たちの製品は、人の手や目や指先の感覚を動員しなければ作れない丁寧な仕事の産物です。自然素材を相手にした仕事なので、その都度機械では定量化できない熟練スタッフの加減や目算も必要です。そのためには衛生的で近代的な設備と、スタッフたちの職人的な技能と経験は欠かせません。熟練スタッフは会社の財産ですので最大限の敬意とともに大切に扱うのは当然のことです。求人に際しても、まずは質の高い人材を確保し、相応の研修期間を要して育てるのも当然です。
働く人々にはそれぞれの労働観があり、精神的にも豊かな生活があり、家族との大切な時間があります。

その為には会社として相応のコストが掛かります。多くの日本企業は東南アジアなど人件費の安い国に生産拠点を移してきました。当初は私たちにも当然そうした経緯はありました。とはいえ、安い人件費のみでここに会社を構えたわけでは全くありません。一口に「人件費」といっても、その計上されるコストには質が反映されません。機械にも代替可能な単純作業を、安価な人件費と少ない設備投資にのみ魅力を感じて展開したとすれば、それは製品の品質に素直に現れます。品質の低下は製品の信頼を損ね、売上げを毀損し、不良品率を高め、その結果としてのクレームの修復に多大なコストを要します。

仮に人件費を圧縮して短期の利益のみを求めれば、一時的には芳しい成果(帳簿上の数字)を上げるでしょうが、当然これは持続できません。
ごく近い将来、明らかに顕現する問題の先送りであり、また現時点でコストが顕在化されていないからといって、その対応コストを予め負担しないのは会社の無策でしょう。無自覚に状況に流されるがままの現状維持は緩やかな死ですが、負担すべきコストの先延ばしは更にそれを加速する積極的な行為です。

こんな話があります。
サリュー・フォスは1970年代後半、立ち上げ当初のベガーズ・バンケットでラーカーズのデビューシングル「Shadow/Love Story」のレコーディングに関わりました(ほとんど売れませんでした)。その後は4ADへ移り、そして後半はチェリー・レッドと当時の勢いのあるレーベルを渡り歩いたプロデューサーです。当初はキーボーディストとしてアーティスト活動もしていたようですが自身名義の作品は一枚もリリースされず、次第にプロデューサーとして手腕を発揮したといわれます。
とはいえ音楽業界でいうプロデューサーの役割は独特です。彼の場合はクリエイティブに関わる全権を握るプロデューサー(当時のコニー・プランクやブライアン・イーノのような)ではなく、あくまで資金調達(といえば聞こえは良いですが、当時は勃興期のインディーレーベルです。帳簿会計すべて遣り繰りしなければならない番頭的役割でだったと思われます)に特化した文字通りの裏方プロデューサーだったといいます。

サリューが音楽業界の表舞台にほとんど名を留めることなく(華々しい名門レーベルを渡り歩いたにも関わらずです)、関わった多くのレコードにもクレジットすらされていないのには理由があります。自身の美意識として、あくまでアーティストとしての作品発表に拘り、最後までそれを目指したから。そのために裏方仕事での自分のクレジットを執拗に嫌ったから。というのが表向きです。しかし、レーベル運営に際して裏取引、帳簿外取引を主な生業としたからだ、という人もいます。例えば同じ就職先でも大手銀行であれば親や親戚にも自ら進んで報告しますが、街金、サラ金の類いでは漠然と「金融関係」としてお茶を濁すでしょう。どちらが本当かはわかりません。

彼が活躍した時代はMIDI規格が登場し(1984年)、安価なサンプラーが登場し(エンソニック社のミラージュ、AKAIのS612の登場は共に1985年)、音楽制作を巡る環境が大きく変わるその前夜でもありました。
「シンセサイザーは日常のあらゆるサウンドを合成できる!」
「サンプラーを手にした今、私たちは自分のオーケストラを手中にしたのだ!」
こうした当時の電子楽器に対する素朴な高揚感は、おもには19世紀のフランスの数学者フーリエの唱えた「あらゆるグラフは正弦波グラフの集合体で表現できる」とした「フーリエ変換」の定理に後押しされたものでした。主にはアナログシンセサイザーの時代です。とはいえこれを音(音波)に適用した時点で、理想(定理)と現実(電子楽器)の乖離がおきました。理論上は可能でも、音色を特徴づけるあらゆる音(倍音)をひとつひとつ設定してゆくのはあまりにも複雑で、全く現実的でなかったのです。

サリューは祖父の代に渡って来たフランス系イギリス人でした。19世紀のフランスの数学者が唱えた定理と、自分が生業とする新しい産業、音楽制作の現場とを重ね合わせ、全能感に浸っていたのは想像できます。
音楽制作環境の変化は、制作に掛かる予算の変化でもありました。いかに安価になったとはいえ、最新の音響機材、レコーディング機器をいち早く導入するためには相応の資金が必要です。レコーディングの現場には直接関与出来なかったとはいえ、資金面、経理会計を任された彼は、新進のガレージメーカーに次々に機材を発注し、自分のレーベルの(まだレコーディングすらされていないアーティストの)レコードを営業してまわり、NMEなど音楽誌の記者たちと親しくし、ライブハウスを回って新人スカウトの真似事もしていたといいます。
大変人当たりの良かった彼は、それら全てに必要以上の発注と実体の無い営業を繰り返したといいます。当然方々でトラブルを起こしますが、所属レーベルを頻繁に移籍したのもそうした理由があったのかもしれません。サリューは営業に際して自身はほとんどリスクを負うことなく、壮大な夢を熱く語り、多方面に出資を促してはそのコストを悉く回収できませんでした(多大な損失を与えたということです)。各方面への大迷惑と、「しょうがねえなあ」という人々の苦笑以外は、音楽業界にほとんど名を残すことなく、消えて行きました。とはいえ、世界中の音楽業界には彼のような人物は山ほどいたはずです。ビジネスには分をわきまえた投資と受注と発注が大切です。キャパシティを越えてはいけません。

キャパシティを上回る受注があった際の対応には以下が考えられます。まずは既存の製造ラインを上限フルに稼働させる。残業と休日出勤で更にキャパの上限を押し上げる。臨時に人を雇用してラインを拡幅する。これらが対応の定石でしょう。頂いた受注に応えるのが基本です。なぜなら製造数に見合った利益が望めるから。しかしそこには顕在化しない多大なコストが掛かります。
帳簿に載せられない取引はあってはならないものですが、帳簿に現れないコストは存在します。そうした見えないコストこそ会社には大切です。(Jiro Ohashi)