2013年6月27日木曜日

蜜蜂の国  Tropical honey bees

東南アジアにはとても多くの種類の蜜蜂が居るのをご存知でしょうか?
もちろん、山に囲まれたチェンマイもです。

例えばネパールで仕事をしている時に、ビーワックスクリームの原料(ミツロウ)を採る際にお世話になったオオミツバチ(Apis Dorsata)などは、日本ではなかなか目にする機会のない蜂です。しかし、こちらではむしろ身近に、あたかも養蜂で飼われている西洋ミツバチのように”普通”に存在しており、その美しくも巨大な姿を気軽に人前に現します(体長は3センチ程、西洋蜜蜂の胴体を倍に伸ばしたようなスマートな感じの形をしています)。
時にはカムティアン植木市場の睡蓮の花に、家の庭のシルクジャスミンの花に。また、線路沿いや運河沿いの大きなコットンツリーの木の枝に直径50センチはありそうな半月形の焦げ茶色の巣がだらりと下がっているのも、このあたりではよくある、でもとてもゴージャスな光景です(巣が焦げ茶に見えるのは蜂がびっしり集まっているためです。そしてよく見ると蠢いています)。

なかでも最も壮観なのは、ラムヤイやリンチーの花の季節です。
小さな象牙色の蝋細工のような花が房になって咲き、シナモンのような甘さと少し渋いようなスパイシーな感じの、とろりとした金色を感じさせる香りの帯があたりにたなびき始めると、ラムヤイやリンチーは歌う木になります。声の主は蜜蜂たち。花に蜂が鈴なりになって、その無数の蜂たちの羽音が重なって共鳴し、なんとも心地よい振動音を響かせるためです。
そんな時、人の声ならばテノールのような、高からず低からずの優美な良くとおる音色を奏でる主役級の存在がオオミツバチなのです。
スマートな姿と心地よい羽音に、花に集まっている姿を見るとつい目で追ってしまうのはオオミツバチですが、他にも小さな面白い種類の蜜蜂もいます。ようやく最近になって、こうした小さな(そして面白い)蜂たちにも、とても興味が湧いています。

例えば、写真の奇妙なカラメルのパイプみたいなものは「ハリナシミツバチ」の巣です。
この蜜蜂は体長1センチ程の小さな種類で、一見するとコバエかなにかに見えます。もともと性質も温厚ならば、名前のとおりお尻の針も退化していて、敵を刺して撃退する事ができません。東南アジアのみならず南米にも広く分布し、その穏やかな性質もあってか、世界の養蜂の歴史を見るとハリナシミツバチの仲間の方が歴史も長く、養蜂が行われた地域も広く、アミノ酸やミネラルもより濃厚な蜜がとれるのだそうです。
ちなみに気が優しい事を甘く見てあまりに粗略に扱うと、稀に噛み付くことがあり、牙には毒もあるので、これはやはりものすごく痛いのだとか……。小さくて争いを好まない相手だからといって、やはり尊重の念を忘れてはなりません。
この蜂も工場の庭で、ラムヤイとリンチーの花の季節に良く見かけます。羽音は小さく、殆ど聞こえないので存在感は薄いのですが、実際には随分な数が集まってきていて、午前中の涼しいうちしか来ないオオミツバチに対し、昼頃まで粘り強く蜜を集めているのが印象的です。

この写真は、スタッフたちとHIV孤児を支援する「バーンロムサイ」が運営するリゾート「ほしはなヴィレッジ」へ、アメニティのプレゼンテーションをしに出かけ、敷地内を散歩をしている時に見つけて撮影したものです。
巣の様子を良く見ようと、その出入り口へ顔を近づけんばかりに近寄った時にも、この淑やかな小さな蜜蜂は、私を囲むようにゆらっと広がって空中にホバリングして留まっただけで、巣から一族郎党が一斉に出てきて大騒ぎ……。という事も全くありませんでした。
とはいえ、小さな虫がゆらゆらと静かに空中に停止しているのは、蜘蛛がぶら下がっているようにも見えなくはなく、巣のどこか内臓的な形状と相俟って、それはそれで、どこか妖しさや畏怖は充分感じさてくれました。

こうした野生の蜜蜂たちではありませんが、私たちがつくるクリームも、ラムヤイの花に集まる西洋蜜蜂の巣から採れるミツロウを原料にしています。
機会があれば是非ご紹介したいのですが、蜜蝋を提供してくれる養蜂家のおじさんは誰もが「あの人こそ良いタイ人そのもの」というような、朗らかで優しく、勤勉な、そして良い物を作るための工夫好きな、(あまり凝りすぎたら、利益が無くなるわよ!と、締まり屋の奥さんにいつも叱られる)そして蜜蜂と一緒にいて、花の良い香りと蜂の羽音に包まれているのが大好きという素敵な人です。
確かにクリームにの名称にもなっている原料のオイルはモロッコから海を渡ってくるアルガンオイルですが、そのオイルを優しくまとめ、気持のよい滑らかさと透明感のあるクリームにするのは、甘い花の香りと多彩な蜜蜂の仲間たちの歌、素敵な生産者に培われた北タイ生まれのミツロウです。

チェンマイの蜜蜂たちの一番活発な季節は、2月半ば頃から4月下旬にかけての乾いて暑い暑季。マンゴーやラムヤイやリンチーの蜜が豊かで、香り高い花が一斉に咲き乱れる、まさに木々が歌う季節です。雨季も花は美しいですが、むしろ緑の方が茂る時期でもあり、スコールも降り、蜜蜂たちには少し厳しい季節でもあります。
そういえば、2週間ほど前、ジャックさんが養蜂家のおじさんのところへ今年収穫したミツロウを買いに出かけた際、ラムヤイの蜂蜜をおまけでいただいて来ました。「少し空き時間ができた時に、ライムとまぜてジュースを作りましょう!」と、ほくほく顔です。 
ジャックさんが買い付けに出かけたということは、蜂蜜とミツロウの収穫という、人にも蜂にもせわしない時間が終わったということです。
おじさんのところの蜜蜂たちも、花が沢山植えられたおじさんの家の庭で、雨よけの下にしつらえられた巣箱の中で、しばし雨の季節の休息の時を過ごしているのでしょう。(Asae Hanaoka)

2013年6月18日火曜日

おとこの行方 La città delle donne

「男いません。どうして? 男、どこ?」
数年前、北アフリカのイスラム教圏から来たお客様(男性)が、ピン川沿いの市場を通り過ぎた時に呟いた一言に、私は吹き出し、笑いを堪えるのに精一杯でハンドルを持つ手が危うくなったのでした。

それから数年を経て。
「昨日行った税務署というか、役所の中全体、スタッフは殆ど女性だったけれど、市場も女ばっかりだし、ウチも女だらけですね」
タイ国の自動車運転免許がないため、助手席に座った新しいディレクター(男性)氏が呟いた一言。
「そうですね。ここの女の人はみんな真面目で働き者だものね。そういえば女性は“子供ができたら、とにかく手に職つけろ、仕事を持て”って、こっちでは言うらしいですよ」

「本当に居ない。いったい此処の男はどこでどうしているんだろう?」
冷静な男性ディレクターはひとりごちながら、チェンマイにおける男女の社会進出の実態について、思考を巡らしているようです。
丁度その時、横を荷車にびっしり15人程の工事人が乗り込んだ、とても年季の入ったピックアップトラックが通り過ぎました。後部タイヤは体重のおかげでひしゃげ気味で、今にもパンクしそう。見ている方がはらはらしてきます。
「あ、男! 働く男だ!」
男女の別なく、誰しも働くのなんて当然です。にも関わらず、私たちはつい声が揃ってしまいました。

ところで、私たちの会社の従業員は総勢33名ですが、そのうち男性は3名です。
庭師ながら、家具でも家でもなんでも作ってしまうバーンさん。ガスール製造担当で結構女性スタッフともうまくやっている、けれど頭の回転が早く即決型なので、つい時々一人で先走って行動してしまっては「皆で情報共有しなさいよっ!」と、古参のお姉さま方にお小言を喰らうダムさん。そして日本から来た新しいディレクター氏の3名だけです。
1人は日本人ですし、あとの2人も個性的すぎてあまりタイ人男性の典型とは言いがたい人たちです。
加えて私たちの会社のご近所での評判はこんな感じです。
「あそこはさ、経験を重ねた女性たち(おばさん)が大勢長く働いているだろ。手堅い(良い)会社だよ」

そういえば、私が住んでいる家のムーバン(路地、住宅地)のお隣さんたちも、女性たちは朝、お惣菜を満載にしたピックアップで市場へ売りに出かけて行きます。また、決まった時間にガレージから綺麗に磨かれた車でいかにも勤め人らしくスーツを着て出てきたりします。身なりや言動をみても、毎日規則正しく、堅実に働いている感じがあります。
ところが、その同じ家の男たちは……。たまたま会社を休んだ昼下がり、それとなく観察してみたことがあります。すると、テラスの長椅子で扇風機の微風に吹かれながら、だらんと猫と一緒に昼寝していたり、だるそうに庭の生け垣の手入れをしているのは良く見かけましたが、彼等の妻や娘たちのようにしゃきっとしたスーツ姿や、朝、大きな鍋やステンレスバットを担いでいる所などついぞ見た事がないのです。

本当に、タイの男は昼間どこにいるんでしょうか? いえ、もっとはっきり言いましょう。どこで働いているんでしょう?
たとえば、お寺は男性しか出家できませんし、警官は少なくともチェンマイでは女性を見た事がありません。職務的にも雰囲気的にも、古いバリバリの男社会という風です。とりあえず、お寺と警察は男だらけだと思います。
それから、我が社の誇る敏腕製造マネージャー、ジャックさんの心優しいご主人は建設会社のエンジニア、お父上はかなりの年齢だそうですが、農家として現役です。
ちなみに、それはかなり男運がいいかも。というのがもっぱらの噂です。
庭師バーンさんの息子さんは「早く、お父さんお母さんに楽をさせてあげたい」と、料理学校でシェフの修行中ですが、これも良くできた子だと評判の息子です。

北タイはもともと母系社会です。一家の跡継ぎは長男ではなく、末の娘がしていたとも言います。一つには昔はこのあたりは戦が度々あって、男たちは死んでしまう事も多く、それで家を守る女性が一家を支える中心となっていったという説もあるそうです。
かつては子沢山で、子供たちを全て育て上げるのにも時間がかかり、下の子を育てている間にも上の子たちは順次独立して家を去ってゆきます。子供を育て上げて最後まで家に残るのは一番下の末っ子であり、親の世話をする、つまり家督を継ぐのも自然と末の子、末娘となったという合理的な考えもあるようです。
また、北タイに限らずタイでは、食事は市場に食材もお惣菜も豊富で、買って食べる事や屋台での外食はごく日常的な事ですし、洗濯屋なども安価に沢山あって、そもそも女性の家事が社会的に分業化されており、女性が社会参加しやすい環境が整っているのは事実です。

とはいえ、それが働く男性を見かける機会が少ない理由にはなりません。
付け加えるならば、タイでは、身体は男性ながら心は女性という人たちも日常的な存在としてよく見かけます。有名なキャバレーショウなどはもちろん、田舎の市場の屋台、デパートの売り場、銀行、色々な場所に居ますが、とにかく彼女たちは働き者で気配りが細やかな、心根の優しい人がとても多いのです。
そして、そんな彼女たちの生き方のロールモデルは、自分を慈しみ育てるために苦労をしてくれた「お母さん」なのです。そこに、お父さんの影はありません。
また「トム・ボーイ」と呼ばれる、身体は女性ながら心は男性という人たちも良く見かけますが、彼等は少女マンガの美少年のように清潔で、きりっとハンサムで、きびきびとしていて、まるで心に思い浮かべた内なる理想の男性に、自らをできる限り近づけようとしている。そんな感じがします。

そんな事を、出勤の車中、頭の中でひとりごちていた私ですが、職場に着けば、今日は出荷日。
20フィートコンテナにフルで荷物を積み込むべくで忙しく働くジャックさんや、出荷準備の女王・メオさんたちの凛々しい様子や、ブンさんの税務署バトルの報告の公正さに胸が高鳴ってしまっているうちにいつしか、今朝、ぼよんとした手触りで湧き上がった「男性問題」は頭の中から雲散霧消していました。

出荷も無事終わって午後の5時。
我が社の終業時間です。終業15分前から、蟻の目をフル動員させて現場の掃除を始め、製造リーダーたちは清掃後、次の仕事の予定や今日の問題点などを打ち合わせ、定刻になると皆、バイクを駆って風のように家路につきます。
家に帰りついても両親や子供たちの世話など、彼女たちは眠るまでその手腕を発揮するのでしょう。

「あ、男がいっぱい!」
仕事が終わり、ちょっと空の色の美しさにも目がいく余裕ができた帰路、助手席でまたディレクター氏が声をあげました。
私が、うっとりとスタッフたちの素敵な働きぶりを思い返している脇で、どうやら、彼はその後もずっとチェンマイの男たちの行方に思いをこらしていたようです。
彼の指差す先には、成る程。
「消息不明の」チェンマイの男たちが、あたかも陳列棚に並ぶかのようにずらりといました。
ところで、指差すその手の小指が若干反り上がっていたのは、私の見間違いでしょうか?

彼のすらっと長くて綺麗な指の先。そこはピン河にかかる幅の狭い鉄の橋。姿もアンティークで美しく、左右に歩道があるのでそぞろ歩く人が多い橋です。
そこに確かに大勢の男たち。いずれもランニングかTシャツにショートパンツにビーチサンダル。
非常にリラックスしたなりで、手すりに寄りかかって河を覗き込んだり、楽しそうに話し合ったりしています。
中にはビールやレッド・ブルを手にしている人も居ます。今からレッド・ブルなんて飲んで、これから何をがんばろうというのでしょうか?
他にもまだまだ居ます。歩道に胡座で座って、将棋かなにかゲームをしている人、それを見物している人。スマートフォンでどうやらTV番組を見ている人。
服装こそ違えど、なんだか、五百羅漢かランナー時代の風俗画の遊ぶ男たちのような光景です。

更に目を凝らせば、居並ぶ彼等の間にはすらりと華奢な棒が地面から立ち上がり、エレガントな曲線を描き、その先端はどれも川面をひゅっと指しています。美しい曲線の正体は釣り竿。そう、彼等は釣りをしに橋に集まっているのです。
そういえば、ここっていつも夕方になると男の人たちが釣りをしに集まっているよね。と、私はふと思い出します。でも竿が上がったのもかつて見たことがありません。
きっと釣りは口実でしょう。魚がかかろうがかかるまいが関係無し。仕事が終わって帰ってきた娘や妻の目を逃れて、ここに集まり楽しく会話するのが目的だと思って間違いありません。

そこまで思い至ったとき、以前、北アフリカから来たお客様の言葉が蘇りました。
「チェンマイの男、いいです。釣りが男の仕事です」
この言葉、我が社のタイ人男性スタッフを思えば、この北アフリカから来た彼の言葉は私は断固否定したいと思います。でも……。

世の中の半分は男性でできている筈です。それにしてはやっぱりここで目にする、額に汗する男性の数はあまりに少ない気がします。工事現場だって、実は女性の比率が高くて、彼女らを見る度に、私の頭の中では「ヨイトマケの唄」が鳴り響いてしまうくらいです。
本当に、チェンマイの男の人は何処で何をしているのやら……。

「男はどこにいるんだろう?」
「橋の上に」
橋の脇の菩提樹の下では、コンクリートのおんぼろのテーブルに薬用酒の瓶を並べ、壊れかけたプラスティック椅子に座ってお酒を楽しんでいるおじさんたち。
「菩提樹の下にも」
「職場はもう女で満員だから」
「仕方ない」

雨季のスコールに洗われた清冽な金色の西日が射し、鳳凰樹の朱色の花弁が降る、おおらかに天国的な風景の中を車を走らせながら、私たちは呟いていました。
声が響くその向こうには、何故か輝く虹のアーチが見えています。


とりあえず、当面、私たちの会社は、明るくて働き者の肝っ玉母さんや凛々しい乙女たちが主役ということでしょうか。
今日は輸出のための、製品のコンテナ積み込み日でした。主役は出荷を取り仕切るメオさんや品質管理のケッグちゃんたち女性。でも、良く思い返せば、運送会社からは、我が社の美人組(残念ながら全員既婚ですが)目当てのアルバイトのちょっとBボーイ風なお兄ちゃんたち、そして要所要所で、その気配りと腕力を発揮している我が社の男性社員、バーンさんとダムさんも押さえを効かし、コンテナトラックが出た後のダムさんは「やりきった!」と言う風の壮快な顔をしていましたっけ。

きっと貴重な誇り高き働き者の男は、我が社のバーンさんたちのように大きな心で、いざという時以外は並みいる女たちの間に姿を消すようにして、彼女等を支えているのだと思います。(A.H.)

2013年6月10日月曜日

レフィカ:アダテペのエキストラバージン・オリーブオイル      Refica:The beauty of peace and harmonize

美しく、愛しい彼女。

水曜日、首を長くし現場スタッフたちは実は内心はらはらもして待っていた大切な彼女。
その彼女がトルコから、遠路はるばる私たちの工場にようやく到着しました。

「彼女」とは、私たちが作っている石鹸のもっとも大切な主原料であるオリーブオイル。
工業用の精製オイルではなく、食用の極上エクストラバージン・オリーブオイルです。

彼女の生まれ故郷はトルコのエーゲ海沿岸にあるアダテペ。
地母神キュベレーが住まうイダ山に抱かれるようにして、その名「アダ」のとおり空中の島のようにぽつんと盛り上がった丘にある村。(アダとはトルコ語で島、テペは丘です)。
その周辺もまたこの特別な場所に相応しく、アリストテレスも教鞭をふるった小さなポリス・アソス、「イーリアス」や三女神の審判で有名なパリスが王子であったトロイ、聖母マリア昇天の地とアルテミス神殿があるエフェソス、エジプトのアレクサンドリア図書館と知の覇権を競い、ベルガマ紙も作り出した古い都ベルガマと、そこはまるでギリシア神話、ヨーロッパ文明の黎明の舞台そのもの。
そして丘から眺めるエーゲ海の上には、ギリシア領のレスボス島が見え、今でもアダテペの麓の港に市が立つ日には、新鮮で美味しく手頃な値段の食糧を買いに、船でギリシアの人たちが買い出しに国境を越えて来ると言います。

このように彼女の生まれた場所はトルコでありながら、随分ギリシアの香りが色濃い場所です。実際、アダテペ村の石造りの家々の様式も殆どが200年程前に建築されたギリシア様式なのです。
ではなぜアダテペ村が、トルコにありながらこうもギリシア的な文化の場所なのか? といえば、実はモスクもしっかりあり、村にはイスラム教を信仰するトルコ人も暮らしていた事がわかります。アダテペはギリシアの香りとイスラムの香りとが、絶妙のバランスで調和していた世界だったのです。

さて、「だった」「暮らしていた」と過去形で書いたのは、一度アダテペ村は廃村になりかけていたためです。
私が石鹸のための上質なオリーブを求め、初めてアダテペ村を訪れたのは2001年頃のこと。
当時アダテペ村には数世帯の年老いた家族しかおらず、あとは村の美しさや周辺の自然や見事なオリーブ畑に魅せられて「アダテペ村を復興できないか」とやってきた僅かなイスタンブールの人たち(これが私たちの仕事のパートナーです)が居るだけ。しかも着いた日は、春先の冷たい雨の日だったせいで無人化し、崩れかかった石づくりの家なみは一層寂しく、暗い滅びの美が立ちこめているように思える場所でした。
それでも何かの兆しが感じられる村の復興の取り組みと、無農薬・自然農法、石臼の伝統的な製法で作られたエクストラバージン・オリーブオイルは素晴らしく、こんな大きな困難にどこか楽しそうにさえ見える様子で立ち向かうグループの人たちに魅せられて私たちは仕事を始め、彼等の取り組みの深まる様子やそれを反映するように村が再生し、まだ人は多いとはいえないものの子供の声さえ聞こえるようになり、退廃美が健やかな美しさに変化していくのにこれまで伴走してきました。
地域社会の経済やコミュニティ、環境にも貢献しながらビジネスを進める様は、見習いたいような素敵な存在、同志として居られる事が誇らしい程です。

このアダテペ村のプロジェクト、オイルの生産グループ「アダテペ・オリーブ・ミュージアム」(http://www.adatepe.com/en/defaultb5c1.html?iId=HILHG)の活動に初期から伴走してきた事を私は自負していますが、実はもう一人、もっと長くアダテペの歴史と再生に寄り添ってきた人がいます。
それが冒頭に登場する「彼女」です。
彼女は、アダテペのグループが作るペリドットの芳醇な緑のオリーブオイルそのものであり、同時にオイルのシンボルでもある存在。
そんな彼女の名前を「レフィカ」(Refica)と言います。

レフィカは、アダテペで作られるオリーブオイルのパッケージラベルの中の、オスマン時代の正装をした初々しい面差しの美しいギリシア女性で、19世紀の末アダテペ村に生まれ、実際にそこで暮らしていた人です。
彼女の暮らした当時から20世紀初頭のアダテペは、一つの村の中に、中心の広場には理髪店やカフェもあれば、当時最先端の娯楽であった映画館も3軒あり、村の中に楽しみも必要なものも全てある豊かで賑やかな場所でした。そして注目すべきは、モスクと教会が共存していたこと。ギリシア正教を信仰するギリシア人と、イスラム教を信仰するトルコ人が仲良く暮らしていたのです。
レフィカは若く美しく、オリーブの収穫の季節には、友人たちと懸命に働き、皆を元気づける歌を歌い、美味しい食事を村人に振る舞う、優しい心根と働き者。それはアダテペだけでなく近隣の村にも知られる程で、誰からも愛される、そして若者たちにとっては憧れの存在だったと言います。そしてそんな彼女ですし、もちろん勇敢な素晴らしい恋人がいました。その恋人はトルコ人でした。

ところが全てが足りて調和している村の美しい日々は、第一次世界大戦によって壊れてしまいます。
ギリシア人のレフィカもその困難から逃れる事はできませんでした。
恋人は兵役によって戦場へ赴きますが、村で民族も宗教も無く暮らしてきた彼にとっては、トルコもギリシアも同胞です。彼にはどちらに銃を向ける事も同胞を裏切る事になります。戦う事ができなかった彼は戦場を離れ、レフィカは愛する恋人との再会を試みます。
しかしそれは叶う事はなく、更にレフィカはある政治的な有力者と本意ではない結婚を強いられそうになったのです。
すでに村は、ギリシアとトルコの国同士の駆け引きによりかき立てられた、周囲の敵意で乱されていました。彼女はやむなく母国ギリシアへと逃れ、その後村へ戻ることはありませんでした。

争いの嵐が去った後、村の人々はレフィカの失われた恋や故郷の悲しみを思い、バラードを作りました。その歌は結婚式や村のお祭りなどでも歌われるようになり、いつしかそれはアダテペ村の伝統になったといいます。レフィカの恋は、美しく優しく、そして勇敢なトルコとギリシアの若者たちの恋でした。
国と国との間では禍根が残りましたが、アダテペの村は「レフィカ」という思い出によって、悲しい形ではあるものの、人々の結びつきは国も宗教を越えて保たれたのでした。しかしそれさえもまた、国の復興、経済の発展とともに村を出て都市に人が集まる時代が到来し、人々が村を去り始めるとともに、次第に忘れられていったのです。

そんなレフィカの存在が再び見出されたのは、アダテペのオリーブオイルの生産グループによってでした。
彼等は偶然、廃村になりかけたアダテペを見つけ、一瞬でアダテペ村の美しさに、彼等の言葉によれば「恋に落ちた」のだそうです。もしかして、それもレフィカの導きだったのかもしれません。
そして、フィールドワークの中で、村に残る古老たちからレフィカの歌や物語を聞き、村の歴史を聞くなかで、あたかもレフィカに憧れた若者たちのように彼女に魅せられて、周辺の村や町は言わずもがな、なんと果てはレフィカが逃れたというキオス島までその足跡を辿ったのだそうです。

やはり、彼女はギリシアでも美しい人でした。キオスでは、最初の美人コンテストの受賞者となったこともあり、そのおかげか意外に彼女にまつわるエピソードは残っていたそうで、グループの人たちの調査では、キオスへ逃れたレフィカは、別のギリシアの男性と結婚し穏やかな一生を終えたことまでわかりました。
そこで、もしかするとコンテストの時のポートレートなどだって残っているかもしれないと期待も高まり、わくわくと町中を歩きまわったのだそうですが、残念ながらそこまでは辿る事はできなかったとか。
それでも何かレフィカを辿るよすがはないだろうか……? と、彼女の物語にすっかり魅せられて諦めきれないグループのメンバーが訪れたアンティークショップで見つけたのが、レフィカの時代の女性たちの、オスマン様式の正装をした若い女性の絵。写真にあるオイルの缶に張られている彼女の絵です。
謂れはわからないものの不思議と心惹かれてしまうその絵を買い、アダテペの村へ戻り、村の古老にレフィカのその後を話しつつ件の絵をみせたところ、おじいさんは「嗚呼! これはレフィカじゃないか! レフィカだよ!」と叫び、村中の、ついには近隣の村のお年寄りまでが集まってきて「ああ、レフィカ! レフィカ! お帰りレフィカ!」と大騒ぎになってしまったのだそうです。

「確かにそうだとしたら、ドラマティックで、ロマンティックで僕らも嬉しいけれどね」とは、ロマンチストでもあるけれど、リアリストでもあるグループのメンバー、ハルクさん。
「たしかに描かれた絵の内容は、時代的には合っているかも知れないけれど、100年以上前の話だよ。おじいさんたちにとってもすでに物語の中のお話。必ずしもこの絵がレフィカのものという確証はやはりないよ。けれどね、きっと若い頃に今の僕らと同じように、レフィカ(の物語)に密かに恋心を抱いただろうおじいさんにとっては、間違いなくそれはレフィカだったのだろうね。
でも、オスマン時代の優雅で美しい姿をしたギリシアの初々しくて幸せそうな表情をした娘さん。かつては、宗教や民族の違いなんて誰も気にしないで、楽しんで、お互いを尊重して愛し合う生き方があった。それがアダテペ村そのもの、本当のトルコそのものだと思わないかい?
だから、僕たちも、このプロフィールを僕ら皆の心の中のレフィカというシンボルにして、この村の再生と私たちのオリーブオイルのシンボルにすることにしたんだよ」。

 村の古老たちの様子を、身振りや声音まで作って表情豊かにユーモラスに話しながら、しかしトルコが背負ってきた重い痛みのある歴史と、今の社会構造や経済が作り出した村の寂しい風景に新しい命を吹き込む方法を作り出して行く決意を、村を囲む松の木を燃やす暖炉の火を眺めながら、ハルクさんたちは話してくれました。

おじいさんたちだって、もしかすると、それはレフィカではないとわかっていて、でもそう思いたかっただけかもしれない。
でも、自分たちが何を失い、それでもなお求めているかはよくわかっていて、でもそれはまだどこかに生きているのだと、自分たちに言い聞かせるようにそう言ったのかもしれない。
私の中の冷めた目のリアリストもそんな風に囁きます。
でもそれならば。
「皆が思いを寄せ、その願いの象徴となったあの絵の人はやっぱり、彼女はレフィカだよ。私にとってもね」。
アダテペを訪れると、その度にレフィカは今もこのアダテペの地に、人の心に生きていると私は確信します。

だって、遠くの東の国から来た私にも、まるでモノクロ写真の中のように冷え寂びた村が、光も色彩も鮮やかな場所に変わるのを目の当たりにしてきたのですから。その変化と、本当のトルコの人たちの心を知るなかで、時代掛かった絵の中の美女レフィカが、生き生きとした一人の女性の香りと体温を持っているのを確かに感じたのです。
そして何より、このあたりのオリーブの木が、彼女の存在の生き証人でしょう。
どれも巨樹で、樹齢300年を越えるものも少なくありません。そんな大きなオリーブの樹々は間違いなく、彼女の歌声や笑い声を聞き、その優しさに応えるように枝葉を大きく茂らせ、その葉影に果実を太らせたはず。春、一面に薫る花の香り、冬、きりりとした緑のジュースのように新鮮な香りのオイルの中には、彼女の思い出、彼女が歌った言葉の記憶も含まれているに違いないのです。

そんな連想をすると、オリーブオイルがトルコから到着するのは単なる原料の入荷ではなく、今オイルづくりに携わっているオリーブオイル生産のグループの人たちの思いはもちろんのこと、トルコの中にある歴史的な痛みとかつてあった美しい調和、また再びそれを目指そうとする希望、レフィカや村の老人たちが願って叶わなかったこと、帰らなかったレフィカの恋人の葛藤が、時間を越えて届いたように思えるのです。

製造チームのジャックさんやカーンさんたちのオイルを無駄にしないよう大切に扱う手や真剣な眼差しにも、レフィカやアダテペの村、オイルを作っている人たちへの深い思いが垣間見えます。実は彼女たちも数年前、アダテペ村を訪れた経験があります。オリーブの木と共に生きるアダテペ村の暮らしは、チェンマイの郊外で自然と近く暮らす自らの生活とも意外に多く共通点があると親しみを感じたようです。またレフィカへも悼みと愛情を持ち、オイルづくりの人たちのパッションには、随分感じるものがあったようなのです。

そんな事もあって、つい「彼女」がやって来た。などと、もってまわった言い方をしてみたくなりました。

西と東の文明が生まれた揺籃であったトルコ。
それは様々な文化、思想の人々が行き交い、互いに言葉を交わし、気持を分かち合う事で成り立ってきた、他の場所ではあり得なかった素晴らしい地域だと思います。
小さなアダテペ村にさえその気風はあって、異なる文化、民族の人々が仲良く互いを尊重して暮らしていました。レフィカとその恋人のように。
一度はそれは失われかけましたが、心ある人たちによって受け継がれ、今、改めてその魅力を大きくあらわしはじめています。
そんな矢先、少し前に始まったトルコ国内でのデモ。原因は様々に取り沙汰されていますが、中には、飲酒を禁じたり、言論の自由の制限、路上でキスをした恋人たちが当局に検挙され、そうした行いを禁止する法律の制定に対しての意味もあると聞きます。

トルコはあらゆるものが自在に混淆しながら素晴らしい文化、情の深さを作って来たのです。本来は、色々な考えを交わしてこそ、その魅力はいや増すはず。警官に、花束を手渡すなど、中には抗議の形を変えはじめている場所もあると聞きます、今の荒々しい日々を越えて、本当のトルコらしい、多様さを受容し交わしあう大きな空気が戻ってくる事を願わずにはおれません。(Asae Hanaoka)

2013年6月7日金曜日

美味なる季節 sweet season

雨季というと、どんなイメージを持つでしょう。
日本の梅雨のように終日雲がたれ込めて憂鬱な雨が降り、更に熱帯であるタイではそこに、大変な湿気が加わって、憂鬱な蒸し風呂にでも居るよう……。
そんな風でしょうか。

4月中旬の水掛け祭りの頃にチェンマイは暑さと乾燥のピークを迎え、空は山焼きの煙や土ぼこりで、晴れているにも関わらず桃色がかった灰色で、その暑さに人も植物もぐったりしながら、どこか狂躁感に苛まれます。
それが、5月の上旬になると突然、熱風の嵐が来る日が数日続いたかと思うと、その嵐の雨に空気が清められ、突如それは高い高い青空が出現、鳳凰樹の朱色がにじむように青さに映え、地面は少し冷やされて朝夕にどこかひんやりとした風が吹いて鳳凰樹の繊細な枝を揺らします。
しかし、夏至へ向かっていく太陽の高度はいや増し、昼にはほぼ頭の上、空の頂上で輝くので地面は再び熱せられ昼には強い上昇気流が発生。日が陰る夕刻、空気が冷え始めると、地上と上空の温度差に輝くような純白の積乱雲が湧き上がり、いつしか、あたりは灰色の薄やみの世界になっています。
すると遠雷と薄紫色の稲光と、マンゴーの葉を散らしながらざっと大風が吹き、突然大粒の雨があたりに打ちつけ、ノイズの嵐と水しぶきのドームに私たちは包まれています。
そんな風に、その年初めてのスコールはやってきて、雨季は鮮やかに始まります。

「フォン・トック・レーオ!」
(雨がきた!)
ガスールの検品の手を止める事なく、スタッフたちが口々に言います。

今日もスコールです。

一瞬、ぱっと検品の手元灯が消えます。
「オイ!」
「オォーイ!」
(タイ語でびっくりした時のかけ声は「えー!」でも「わおっ!」でもなく、「オイ!」なのです)
遠くで落ちた大きな雷で、瞬間的な停電が時折やってくるのです。
一瞬の停電ならば良いのですが、あまりに大きな落雷の時は長い停電になることもあります。
でも、そんな事はこの国では当たり前の事。停電で仕事が停滞する事は殆どありません。それぞれにバッテリーや自家発電機などの対策はあらかじめ取られているし、個人の生活の中でもこうしたことへの備えは充分にされているからです。
そしてこうした姿勢の背景には、田舎の暮らしのなかには、まだまだ電気が無い頃の知恵やライフスタイルが残っていて、そうした方法が会社などの中にも、小さな場面に生かされていることが感じられ、私はそうした事にタイという国の人たちの地に足のついた知恵や謙虚さ、眼差しの柔軟さや真っ直ぐさを感じずにはおれません。

私たちの会社でも、長めの停電が来れば「おやおや雨季だものね」と、パッケージ検品など電気が無くてもできる仕事に、スタッフたちはすっと切り替えてしまいます。あまりに素早くて、自然なので、誰が指示したのかもわからない程です。
(実際は、終業後の現場リーダーミーティングなどで、各業務の進捗状況の情報共有や、こんな場合は……。というケーススタディがかなり渋く行われている)

「あーあ、こっちのマンゴーは実が落ちちゃったわ、帰りに貰ってこうと思ったのに……。こっちの木のは良い匂いなのにね」
「もっと早く雨が降るようになっていればリンチーももっと大きくなったのに」
「雨、帰る頃には止むかな。市場で晩ご飯買いたいんだけど」
作業の手も、品質管理の目も抜け目無く働かせながら、なんだか午後になると食べ物の話が多くなるのは女性が殆どの職場だからでしょうか。

無事、雨が止んで終業前の掃除の時間。
庭師のバーンさんを囲んで、スタッフたちがなんだか羨ましそうに騒いでいます。
件のバーンさんは建物の傍、地面に円錐形に成形した青い網をピラミッドのように伏せて満面の笑み。

「なあに?」
「メンマンだよ!」
「いいなぁ~!」

網の中を覗き込むと、体調4センチはある大きな羽アリが地面からはい出してきています。身体はニスを塗ったように艶がある赤茶色。
メンマンというのは、北タイ方言の呼び名で、ヤマアカアリの仲間です。
「もう少し暗くなると、この上の方に一杯出てくるよ」
「うーわ~。」
興味津々だけれど、ちょっと顔が強張っている私に対し、バーンさんは、ニコニコを通り越して、ちょっとにやけた風にも見える顔で笑っています。
その背後で、網の外に這い出したメンマンを何匹か手のひらにこそっと、隠匿しているスタッフもいます(笑)。

北タイには虫を食べる文化があります。
野生の蜜蜂の子はもちろん、タガメ、竹の中に育つ虫、マンゴーアリの幼虫、チクンというコオロギに似た虫、大型のカイガラムシなどなど、それは様々な虫を食べ、料理法も多彩。
メンマンも実はその一つで、雨季になると、羽蟻たちが新しい家族を作るために古巣から出てくるのを捕まえるのですが、これが滅多に手に入らない珍味。それがなんと会社の敷地の中にあり、しかも同時に3つの巣から出てきたのですから、「庭の主」であるバーンさんは顔が弛んでしまうし、スタッフたちは羨ましくなってしまうのも致し方ないことでした。

「サワディー・カー(さようなら~)」
製造マネジャーのジャックさんが、わいわい言っている私たちの後ろを通り過ぎました。
「ジャックさん、メンマン、いらないの?」
「うーん……、ジャックは、マンゴーを採って行くから」
「工場の庭のは美味しい?」
「一番美味しいのは玄関の脇の木のね。とても匂いがいいの。でも、敷地の入り口のも小さいけれど酸味が効いていて美味しいの」

そんな話しをしていると、ジャックさんの向こうにアメリカネムノキの若木のまわりに生えたドクダミを摘んでいるクリーム製造チームのノイちゃん。
「これ、スープにいれます。良い匂いだから」
その向こうには、コンポストに生えた空芯菜や、カラスウリの若い蔓の束を持っている子が視界を横切って行きます。

こちらでは蟻採り、あちらには野草摘み、それからマンゴーもぎ。他にも小さな紫の木の実を狙っているスタッフもいます。
終業後の工場は、気づけば最早工場ではなく、あたかも畑か野原か、狩猟採集生活の場。
そうでした。今は「ルドゥ・ローン」と呼ばれる暑くて乾ききった季節(乾季)の後の、「ルドゥ・フォーン」(雨季)。恵みの季節です。
マンゴーやマンゴスチン、ドリアンを筆頭に数え切れないほど沢山の種類の果物、珍しい虫たち、川には魚、野原には香り高く美味しい草、森にはキノコ(ドライブをすると道沿いに、山で採った茸を売る人たちの露天が並ぶのもこの季節)、至る所に美味しいものが育つ豊かで甘美な季節。スタッフたちが庭ですっかりはしゃいでしまうのも当然でした。

実は、私にとってはこの「狩猟採集」の時間もとても貴重な時間です。
メンマン採りのように本当の北タイの人たちの暮らしぶりや自然観を学ぶ場であり、採った果物やハーブを包む蓮やバナナの葉の形に、例えば、こんな新しいパッケージがあったら……と、皆と話し合う場になっているからです。
少し緊張してミーティングで顔を突き合わせるより、むしろ全身を動かし、五感に心地よい感覚をたっぷり満たしながら、くすくす話し合った事の方が、もの作りのアイデアや方法の源泉になっていて、ミーティングはむしろそれを実現するための「段取りの打ち合わせ」になっているような気がします。
そんな事をスタッフたちも感じるのでしょうか、良い香りのハーブや細い草や竹を編んだカゴやおもちゃ、パンダヌスの葉で包んだ餅菓子、ココナッツの殻のお皿などを作ったり、市場で買って「これ、見た事ありますか?」と少し自慢そうに持ってきてくれ、この豊かな庭での会話が、仕事の時間をも豊かにするきっかけになっているのです。

私たちの作る化粧品と蟻も、あまりに唐突な組み合わせのようですが、けれどそこにも実は、蟻が出てくる場所や野草の美味しい部分を選びとる、北タイの自然と健やかに結びついたスタッフたちの手や目の繊細な感覚がフルに働いています。

もしできるなら、これからは、皆が持ってきてくれる美しい北タイのかたちや香りを素材に、新しいもの作りができないか? と、メンマンが地面から空に向かって飛び立とうとする様子や、ノイちゃんが大変な秘密を打ち明けるように、涼しい香りのハーブを私の鼻にそっと近づけてくれる様子を思いながら、考えるこの頃です。


ちなみにメンマンは、かりっと炒めてもち米(北タイの主食はインディカ米ではなく、もち米)と一緒にいただくのが美味しい食べ方です。(A.H.)

2013年6月6日木曜日

2時間の時差 subtle difference

東京とパリは8時間、東京とベルリンも8時間、東京とニューヨークは14時間。世界各国それぞれの都市ごとに距離に応じた時差があります。またこのくらいの時差があるとさすがにジェットラグも発生します。またアメリカ西海岸と東海岸では3時間の時差があります。これはひとつの国の中での時差であり、広大な国土の存在を感じます。
そしてタイと日本との時差は2時間です。日本の正午はタイの午前10時、タイは日本のマイナス2時間です。この微妙な時差は慣れるまでなかなか身に付きませんでした。

思えば就学前の幼稚園時代、時間が遅々として進まず、あまりにも遅いこの世界の進み方に泣きたくなった経験は誰しもあるでしょう。幼児が集中力を持続できる時間など実際のところ数分だと思います。
日本の小学校の授業時間単位は45分ですが、これは1年生も6年生も基本同じ、低学年児童にこの時間集中させるのはかなりの苦行だと思います。2時限目と3時限目の15分(もしくは20分)の中休みがいかに密度の濃い充実した時間だったかを思うと、生体の成長(老化)と時間の感覚には改めて驚きます。今やぼーっとしていれば2時間なぞすぐに経ってしまいます。特に大人の2時間はあっと言う間です。
そんな時間感覚としての2時間です。中途半端この上ない時間差です。夕方6時に電話を掛けようとするも、先方(日本)は夜の8時だと思い直して止めたことも度々あります。夕方と夜、朝と早朝といった微妙な時間の移り変わりの影響を直に受ける時間差です。


Pink Floyd - Time(http://youtu.be/MUt7qmSvxLI)

外国を意識しつつも、そこは同じアジア、こちらでは外国人(西洋人)のことをファランと言いますが、私たち日本人は外国人ではあってもファランではありません。アジアの国々のなかで植民地化されなかったのも日本とタイの二国だけでした。双方のロイヤルファミリーは親戚付き合いさながらに仲が良く、また双方の国民ともに自国のロイヤルファミリーを愛しています。
バンコクの商業エリアやターミナル駅の界隈は新宿や渋谷と一瞬見間違える景色ですが、それもいったん郊外へゆけば田園風景が広がります。そしてその景色ははかつての日本の景色、30~40年ほど前の日本の地方の景色です。

スタッフたちと話していて思うのは、彼ら彼女らははっきりと「明るい未来」を信じているということです。今日の生活は明日にはもっと良くなり、今のサラリーは来年にはもっと上がっている。今はバイクで通勤しているけれど、いつかは必ず車が買える。今の家は昔ながらの木の家、草葺きの家だけれど、しばらく頑張れば新建材をふんだんに使ったコンクリート作りの「新しい家」が建てられる。そこにあるのは昭和40年代の日本です。2時間の微妙な時差を超えてやってきたこの国には、40年におよぶディレイ装置をかました、かつての日本の姿がありました。
とはいえ当時はグローバル・キャピタリズムもグローバル・ウォーミングもその存在自体が意識もされていませんでした。原子力は輝かしい未来の象徴でした。世界はすでに40年を経過しています。スタッフたちもそれは確実に意識しています。(Jiro Ohashi)

2013年6月3日月曜日

大切な私のiMac new mac and fabric cover


先日やっとスタッフのためのパソコンを新調しました。これまでもパソコンはあるにはあったのですが、でも要はそのレベル。それはタワー型のいまどき大きなパソコンで、モニターはブラウン管、OSは先日サポートが打ち切られたWindows XPでした。ネット回線は工場を建てた当初に“民間の業者”から引いてもらった電話線。TOT(所謂こちらの電電公社)に正式に頼んだら順番待ちで何ヵ月(もしくは1年以上?)待たされるわからない、ということで多少の予算が掛かりつつも、業者に頼んで電話線の架設から行った貴重なネットの生命線です。ちなみに当時、私たちの会社の周辺には電話線は来ていなかったとのこと。
そんな時代からあるパソコンですから、その遅さといったらなかなかのもの。「さて、いよいよ壊れたか」と心配になる頃合いに、じわっと画面が変わります。まあそれだけ使用頻度が少なかったからやってこれたわけで、とりあえずExcelとWordが動けばオーケーという事務機器でした。

私たちは自前のMacBook Airを毎日携えて出勤し、仕事にもそれを使っていますが、スタッフたちのパソコン環境はいい加減改善しなければなりません。特にSAL Labでは情報収集は重要です。メールのやり取りにも加わってもらう必要があります。
というわけで、今回iMacを2台導入しました。1台はシンコさん用、そしてもう1台がSAL Labのジャックさん用です。
iMacというのは昔からずば抜けたCPの良さで認識していましたが、改めて今のスペックを見て少し驚きました。21.5インチのワイドディスプレイで、プロセッサは2.7GHzクアッドコアのIntel Core i5、メモリも8GB積んでHDDは1TB。ワイヤレスのキーボードとマウスが付いてこれで4万3千バーツしないのです。もう十分でしょう。
もちろんもっと安いWindowsPCはいくらでもあるでしょうが、オールインワンの一体型で、メンテナンスが容易で、なによりデザインの美しいマシンとしてはもうこれで十分です。
というか、ぼくはMac以外のパソコンをまともに扱ったことがないのです。最初に買ったのがPlusでメモリが1MBで、並行輸入の英語版を買ったので漢字Talkがまだなくて……、と昔話はやめます。

そのiMacですが、市内のショップで買って車で会社に運び、「This is your new PC. Please!」とジャックさんに言うと、キャーキャー言いながら満面の笑顔で「コープンカー!」と喜んでくれたのですが、どうもすぐに箱から出してセッティングをする気配がありません。皆で箱を開けてキーボードやマウスの収納具合や、緩衝材の使い方、パッケージとしての機能性や面白さを検分したかと思うと、またきれいに箱詰めしてしまいました
しばらく経ってからまたそっと見てみると、今度はどこかに仕舞ってしまったみたいです。大掃除がはじまるのでどこか安全なところに退避させたのか、どうやら週明けにセッティングするようです。きっとiMacにも専用の布カバーとか作ってくるのだと思います。(Jiro Ohashi)

2013年6月1日土曜日

この場所の香り scent of our days

 夜の雨のおかげでナルドのような、沁み入る暖かさと渋さをわきたたせる土の香り。キュウリや青いトマトのような青っぽさと甘さがある新鮮な草の香り。濃厚なワインのような香りは、熟して地面に落ちたリンチー(茘枝)やマンゴー、ラムヤイ、ジャックフルーツなどの果実が発酵し、欠伸のようにぼんやりと漂わせているもの。隣の草地からは、ひんやりした風に載ってほんの微かにやってくる獣や枯れ草や糞の香り。香りの主は会社の敷地と草地の境界近くまでやって来て草を食んでいるコブ牛たち。
 季節折々に変わりますが、今、朝の会社に着き、草葺き屋根のガレージから工房へ向かう時に、私たちを包んでいる香りです。

 芳香もあれば悪臭(?)もあり、どれもとても個性的でありながら、熱帯の雨季の澄んだ空気の中ではそれらは絶妙に溶けあってどこか懐かしく、同時に爽やかで生き生きとした香りになっているのは、タイという駘蕩として鷹揚、優雅な国らしく思われ、同時にそれがしっかり感じられるのはチェンマイの郊外という、まだ自然が豊かな場所に私たちの工房があるからでしょう。

 暑季である4月から雨季の始まりの6月上旬にかけて、私たちが楽しみにしているもう一つの香りがあります。朝、工房のドアを開けると室内に漂っているジャスミンの香りです。
 室内なのに何故薫るかといえば、スタッフのカーンさんが朝早く、敷地内のジャスミン畑で花を摘み、小さなカゴに入れて私たちの机の上に置いてくれるからです。

 ジャスミンはとても香りが強く、その芳香成分は拡散性が高いため、少しの花でも室内いっぱいに淡く香りが広がります。おかげでドアを開けた瞬間、中国茶をとても美味しく煎れられた時のような、甘くも爽やかな香りがあたりに漂い、工房の中の気温が少し下がったようにも思える涼感をも感じさせます。
 おかげで慌ただしかった通勤中の気分がゆったりと落ち着くので「今日はあるかな?」と、ドアを開けるのがとても楽しみなのです。

 また午後、皆の作業もいよいよピークに差し掛かる頃になると、陽射しも少し西に傾いてあたりに乱反射し、室内にも忍び込んで意地悪に肌を刺し、さしものスタッフたちも少し気持が乱れそうな時分。
 またどこかからふっとジャスミンが香ります。
 正体はスタッフたち自身。それぞれが自分の家の庭から持参していたもの、庭から摘んで来たものなど、様々なジャスミンが帽子で覆ったひっつめ髪に飾られて、それが帽子のメッシュから透けて見え、花は布越しに密やかに漂って、それぞれにエールを送ってくれているのです。

 そして夕刻。
 仕事が終わり、明日のためのリーダーミーティングも終えてそれぞれが帰り支度をする頃、西にある山ドイ・ステープから降りてきたスコールが、水田やラムヤイ(龍眼)の果樹園を潤しながら、私たちの工房のあたりを通り抜け、熱い地面を冷まして行きます。
 スコールのおかげで少しずつ冷えて来たとはいえ、暑季のカンカン照りで溜まった地面の熱は高くて、スコールから1時間もすると、再びあたりは暑さに包まれます。その中をようよう家へと帰り、室内はさぞかし熱が籠っているだろうと、のろのろドアを開けた瞬間。私を迎えてくれるのは、やはり涼しいジャスミンの香り。帰り際にハウスキーパーのヌイさんが回していってくれた扇風機の微風に乗って迎えてくれます。
 部屋の奥へと目を向ければ、テーブルの上には彼女が朝の出掛けに庭で摘んだ花で作ってくれた小さなブーケが。穏やかで慎ましい彼女そのままの風情でそっと飾られているのが目に入ります。 
 欲張りな私は花を鼻と目で楽しむのではまだ物足りなくて、帰ってきて一息つくためのお茶にヌイさんが丹精したジャスミンを一輪入れ「これでお茶もひと味違う」といささか無粋にほくそ笑んでしまいます。

 こんな風にジャスミンは、ここではとても身近な存在で、市場ではレイ(タイでは「マライ」と言います)が売られ、交差点ではそれを仕入れて、赤信号で停車中の車に売る人たちも居て、ドライバーは車内の小さなお守りと一緒にバックミラーにぶら下げて飾り、大抵の家にある精霊の家や小さな仏像にもこれらは捧げられます。
 そうでなくてもエアコンや扇風機の前に置いて、風にも香り付けをし、熱帯に居ながら、家は簡素で鄙びたものであっても、どこかゆったりと清雅な雰囲気を漂わせるのが、チェンマイの郊外に暮らす人(私はこっそり「本物のチェンマイ人」と呼んでいます)たち。
 チェンマイはかつてあったランナー王国の都だったせいでしょうか、ここの人たちはこうした、自然の花や草木を五感で楽しめるよう、ささやかかつ優雅にしつらえるのがとても得意な気がしますし、こうした細やかな感覚がもの作りのアイデアや品質を保つ目配りにも生きているのが感じられます。

 写真は、4月にあるタイの正式なお正月に、年長者等に敬意を示し、互いの長寿や健康を祈りあう「ダムフア」の儀式に使う神聖な水「ナム・ソムポーイ」。本来は髪を清める意味を持ち、昔、シャンプー代わりに用いられたネムカズラの実、殺菌効果のある鬱金などを入れる他、香りづけに芳香のある花を浮かべたり、手軽なところでは既に香り付けされた市販の水を使うのですが、私達の会社では、もちろん敷地内の新鮮なジャスミンの花。新鮮な花そのものの香りがする「ナム・ソムポーイ」になりました。

 お祈りをする際、相手の手や首に欠けるマライも同じく敷地内のジャスミンやカイガンタバコの花を使って作りました。(A.H.)