2013年6月10日月曜日

レフィカ:アダテペのエキストラバージン・オリーブオイル      Refica:The beauty of peace and harmonize

美しく、愛しい彼女。

水曜日、首を長くし現場スタッフたちは実は内心はらはらもして待っていた大切な彼女。
その彼女がトルコから、遠路はるばる私たちの工場にようやく到着しました。

「彼女」とは、私たちが作っている石鹸のもっとも大切な主原料であるオリーブオイル。
工業用の精製オイルではなく、食用の極上エクストラバージン・オリーブオイルです。

彼女の生まれ故郷はトルコのエーゲ海沿岸にあるアダテペ。
地母神キュベレーが住まうイダ山に抱かれるようにして、その名「アダ」のとおり空中の島のようにぽつんと盛り上がった丘にある村。(アダとはトルコ語で島、テペは丘です)。
その周辺もまたこの特別な場所に相応しく、アリストテレスも教鞭をふるった小さなポリス・アソス、「イーリアス」や三女神の審判で有名なパリスが王子であったトロイ、聖母マリア昇天の地とアルテミス神殿があるエフェソス、エジプトのアレクサンドリア図書館と知の覇権を競い、ベルガマ紙も作り出した古い都ベルガマと、そこはまるでギリシア神話、ヨーロッパ文明の黎明の舞台そのもの。
そして丘から眺めるエーゲ海の上には、ギリシア領のレスボス島が見え、今でもアダテペの麓の港に市が立つ日には、新鮮で美味しく手頃な値段の食糧を買いに、船でギリシアの人たちが買い出しに国境を越えて来ると言います。

このように彼女の生まれた場所はトルコでありながら、随分ギリシアの香りが色濃い場所です。実際、アダテペ村の石造りの家々の様式も殆どが200年程前に建築されたギリシア様式なのです。
ではなぜアダテペ村が、トルコにありながらこうもギリシア的な文化の場所なのか? といえば、実はモスクもしっかりあり、村にはイスラム教を信仰するトルコ人も暮らしていた事がわかります。アダテペはギリシアの香りとイスラムの香りとが、絶妙のバランスで調和していた世界だったのです。

さて、「だった」「暮らしていた」と過去形で書いたのは、一度アダテペ村は廃村になりかけていたためです。
私が石鹸のための上質なオリーブを求め、初めてアダテペ村を訪れたのは2001年頃のこと。
当時アダテペ村には数世帯の年老いた家族しかおらず、あとは村の美しさや周辺の自然や見事なオリーブ畑に魅せられて「アダテペ村を復興できないか」とやってきた僅かなイスタンブールの人たち(これが私たちの仕事のパートナーです)が居るだけ。しかも着いた日は、春先の冷たい雨の日だったせいで無人化し、崩れかかった石づくりの家なみは一層寂しく、暗い滅びの美が立ちこめているように思える場所でした。
それでも何かの兆しが感じられる村の復興の取り組みと、無農薬・自然農法、石臼の伝統的な製法で作られたエクストラバージン・オリーブオイルは素晴らしく、こんな大きな困難にどこか楽しそうにさえ見える様子で立ち向かうグループの人たちに魅せられて私たちは仕事を始め、彼等の取り組みの深まる様子やそれを反映するように村が再生し、まだ人は多いとはいえないものの子供の声さえ聞こえるようになり、退廃美が健やかな美しさに変化していくのにこれまで伴走してきました。
地域社会の経済やコミュニティ、環境にも貢献しながらビジネスを進める様は、見習いたいような素敵な存在、同志として居られる事が誇らしい程です。

このアダテペ村のプロジェクト、オイルの生産グループ「アダテペ・オリーブ・ミュージアム」(http://www.adatepe.com/en/defaultb5c1.html?iId=HILHG)の活動に初期から伴走してきた事を私は自負していますが、実はもう一人、もっと長くアダテペの歴史と再生に寄り添ってきた人がいます。
それが冒頭に登場する「彼女」です。
彼女は、アダテペのグループが作るペリドットの芳醇な緑のオリーブオイルそのものであり、同時にオイルのシンボルでもある存在。
そんな彼女の名前を「レフィカ」(Refica)と言います。

レフィカは、アダテペで作られるオリーブオイルのパッケージラベルの中の、オスマン時代の正装をした初々しい面差しの美しいギリシア女性で、19世紀の末アダテペ村に生まれ、実際にそこで暮らしていた人です。
彼女の暮らした当時から20世紀初頭のアダテペは、一つの村の中に、中心の広場には理髪店やカフェもあれば、当時最先端の娯楽であった映画館も3軒あり、村の中に楽しみも必要なものも全てある豊かで賑やかな場所でした。そして注目すべきは、モスクと教会が共存していたこと。ギリシア正教を信仰するギリシア人と、イスラム教を信仰するトルコ人が仲良く暮らしていたのです。
レフィカは若く美しく、オリーブの収穫の季節には、友人たちと懸命に働き、皆を元気づける歌を歌い、美味しい食事を村人に振る舞う、優しい心根と働き者。それはアダテペだけでなく近隣の村にも知られる程で、誰からも愛される、そして若者たちにとっては憧れの存在だったと言います。そしてそんな彼女ですし、もちろん勇敢な素晴らしい恋人がいました。その恋人はトルコ人でした。

ところが全てが足りて調和している村の美しい日々は、第一次世界大戦によって壊れてしまいます。
ギリシア人のレフィカもその困難から逃れる事はできませんでした。
恋人は兵役によって戦場へ赴きますが、村で民族も宗教も無く暮らしてきた彼にとっては、トルコもギリシアも同胞です。彼にはどちらに銃を向ける事も同胞を裏切る事になります。戦う事ができなかった彼は戦場を離れ、レフィカは愛する恋人との再会を試みます。
しかしそれは叶う事はなく、更にレフィカはある政治的な有力者と本意ではない結婚を強いられそうになったのです。
すでに村は、ギリシアとトルコの国同士の駆け引きによりかき立てられた、周囲の敵意で乱されていました。彼女はやむなく母国ギリシアへと逃れ、その後村へ戻ることはありませんでした。

争いの嵐が去った後、村の人々はレフィカの失われた恋や故郷の悲しみを思い、バラードを作りました。その歌は結婚式や村のお祭りなどでも歌われるようになり、いつしかそれはアダテペ村の伝統になったといいます。レフィカの恋は、美しく優しく、そして勇敢なトルコとギリシアの若者たちの恋でした。
国と国との間では禍根が残りましたが、アダテペの村は「レフィカ」という思い出によって、悲しい形ではあるものの、人々の結びつきは国も宗教を越えて保たれたのでした。しかしそれさえもまた、国の復興、経済の発展とともに村を出て都市に人が集まる時代が到来し、人々が村を去り始めるとともに、次第に忘れられていったのです。

そんなレフィカの存在が再び見出されたのは、アダテペのオリーブオイルの生産グループによってでした。
彼等は偶然、廃村になりかけたアダテペを見つけ、一瞬でアダテペ村の美しさに、彼等の言葉によれば「恋に落ちた」のだそうです。もしかして、それもレフィカの導きだったのかもしれません。
そして、フィールドワークの中で、村に残る古老たちからレフィカの歌や物語を聞き、村の歴史を聞くなかで、あたかもレフィカに憧れた若者たちのように彼女に魅せられて、周辺の村や町は言わずもがな、なんと果てはレフィカが逃れたというキオス島までその足跡を辿ったのだそうです。

やはり、彼女はギリシアでも美しい人でした。キオスでは、最初の美人コンテストの受賞者となったこともあり、そのおかげか意外に彼女にまつわるエピソードは残っていたそうで、グループの人たちの調査では、キオスへ逃れたレフィカは、別のギリシアの男性と結婚し穏やかな一生を終えたことまでわかりました。
そこで、もしかするとコンテストの時のポートレートなどだって残っているかもしれないと期待も高まり、わくわくと町中を歩きまわったのだそうですが、残念ながらそこまでは辿る事はできなかったとか。
それでも何かレフィカを辿るよすがはないだろうか……? と、彼女の物語にすっかり魅せられて諦めきれないグループのメンバーが訪れたアンティークショップで見つけたのが、レフィカの時代の女性たちの、オスマン様式の正装をした若い女性の絵。写真にあるオイルの缶に張られている彼女の絵です。
謂れはわからないものの不思議と心惹かれてしまうその絵を買い、アダテペの村へ戻り、村の古老にレフィカのその後を話しつつ件の絵をみせたところ、おじいさんは「嗚呼! これはレフィカじゃないか! レフィカだよ!」と叫び、村中の、ついには近隣の村のお年寄りまでが集まってきて「ああ、レフィカ! レフィカ! お帰りレフィカ!」と大騒ぎになってしまったのだそうです。

「確かにそうだとしたら、ドラマティックで、ロマンティックで僕らも嬉しいけれどね」とは、ロマンチストでもあるけれど、リアリストでもあるグループのメンバー、ハルクさん。
「たしかに描かれた絵の内容は、時代的には合っているかも知れないけれど、100年以上前の話だよ。おじいさんたちにとってもすでに物語の中のお話。必ずしもこの絵がレフィカのものという確証はやはりないよ。けれどね、きっと若い頃に今の僕らと同じように、レフィカ(の物語)に密かに恋心を抱いただろうおじいさんにとっては、間違いなくそれはレフィカだったのだろうね。
でも、オスマン時代の優雅で美しい姿をしたギリシアの初々しくて幸せそうな表情をした娘さん。かつては、宗教や民族の違いなんて誰も気にしないで、楽しんで、お互いを尊重して愛し合う生き方があった。それがアダテペ村そのもの、本当のトルコそのものだと思わないかい?
だから、僕たちも、このプロフィールを僕ら皆の心の中のレフィカというシンボルにして、この村の再生と私たちのオリーブオイルのシンボルにすることにしたんだよ」。

 村の古老たちの様子を、身振りや声音まで作って表情豊かにユーモラスに話しながら、しかしトルコが背負ってきた重い痛みのある歴史と、今の社会構造や経済が作り出した村の寂しい風景に新しい命を吹き込む方法を作り出して行く決意を、村を囲む松の木を燃やす暖炉の火を眺めながら、ハルクさんたちは話してくれました。

おじいさんたちだって、もしかすると、それはレフィカではないとわかっていて、でもそう思いたかっただけかもしれない。
でも、自分たちが何を失い、それでもなお求めているかはよくわかっていて、でもそれはまだどこかに生きているのだと、自分たちに言い聞かせるようにそう言ったのかもしれない。
私の中の冷めた目のリアリストもそんな風に囁きます。
でもそれならば。
「皆が思いを寄せ、その願いの象徴となったあの絵の人はやっぱり、彼女はレフィカだよ。私にとってもね」。
アダテペを訪れると、その度にレフィカは今もこのアダテペの地に、人の心に生きていると私は確信します。

だって、遠くの東の国から来た私にも、まるでモノクロ写真の中のように冷え寂びた村が、光も色彩も鮮やかな場所に変わるのを目の当たりにしてきたのですから。その変化と、本当のトルコの人たちの心を知るなかで、時代掛かった絵の中の美女レフィカが、生き生きとした一人の女性の香りと体温を持っているのを確かに感じたのです。
そして何より、このあたりのオリーブの木が、彼女の存在の生き証人でしょう。
どれも巨樹で、樹齢300年を越えるものも少なくありません。そんな大きなオリーブの樹々は間違いなく、彼女の歌声や笑い声を聞き、その優しさに応えるように枝葉を大きく茂らせ、その葉影に果実を太らせたはず。春、一面に薫る花の香り、冬、きりりとした緑のジュースのように新鮮な香りのオイルの中には、彼女の思い出、彼女が歌った言葉の記憶も含まれているに違いないのです。

そんな連想をすると、オリーブオイルがトルコから到着するのは単なる原料の入荷ではなく、今オイルづくりに携わっているオリーブオイル生産のグループの人たちの思いはもちろんのこと、トルコの中にある歴史的な痛みとかつてあった美しい調和、また再びそれを目指そうとする希望、レフィカや村の老人たちが願って叶わなかったこと、帰らなかったレフィカの恋人の葛藤が、時間を越えて届いたように思えるのです。

製造チームのジャックさんやカーンさんたちのオイルを無駄にしないよう大切に扱う手や真剣な眼差しにも、レフィカやアダテペの村、オイルを作っている人たちへの深い思いが垣間見えます。実は彼女たちも数年前、アダテペ村を訪れた経験があります。オリーブの木と共に生きるアダテペ村の暮らしは、チェンマイの郊外で自然と近く暮らす自らの生活とも意外に多く共通点があると親しみを感じたようです。またレフィカへも悼みと愛情を持ち、オイルづくりの人たちのパッションには、随分感じるものがあったようなのです。

そんな事もあって、つい「彼女」がやって来た。などと、もってまわった言い方をしてみたくなりました。

西と東の文明が生まれた揺籃であったトルコ。
それは様々な文化、思想の人々が行き交い、互いに言葉を交わし、気持を分かち合う事で成り立ってきた、他の場所ではあり得なかった素晴らしい地域だと思います。
小さなアダテペ村にさえその気風はあって、異なる文化、民族の人々が仲良く互いを尊重して暮らしていました。レフィカとその恋人のように。
一度はそれは失われかけましたが、心ある人たちによって受け継がれ、今、改めてその魅力を大きくあらわしはじめています。
そんな矢先、少し前に始まったトルコ国内でのデモ。原因は様々に取り沙汰されていますが、中には、飲酒を禁じたり、言論の自由の制限、路上でキスをした恋人たちが当局に検挙され、そうした行いを禁止する法律の制定に対しての意味もあると聞きます。

トルコはあらゆるものが自在に混淆しながら素晴らしい文化、情の深さを作って来たのです。本来は、色々な考えを交わしてこそ、その魅力はいや増すはず。警官に、花束を手渡すなど、中には抗議の形を変えはじめている場所もあると聞きます、今の荒々しい日々を越えて、本当のトルコらしい、多様さを受容し交わしあう大きな空気が戻ってくる事を願わずにはおれません。(Asae Hanaoka)

2013年6月7日金曜日

美味なる季節 sweet season

雨季というと、どんなイメージを持つでしょう。
日本の梅雨のように終日雲がたれ込めて憂鬱な雨が降り、更に熱帯であるタイではそこに、大変な湿気が加わって、憂鬱な蒸し風呂にでも居るよう……。
そんな風でしょうか。

4月中旬の水掛け祭りの頃にチェンマイは暑さと乾燥のピークを迎え、空は山焼きの煙や土ぼこりで、晴れているにも関わらず桃色がかった灰色で、その暑さに人も植物もぐったりしながら、どこか狂躁感に苛まれます。
それが、5月の上旬になると突然、熱風の嵐が来る日が数日続いたかと思うと、その嵐の雨に空気が清められ、突如それは高い高い青空が出現、鳳凰樹の朱色がにじむように青さに映え、地面は少し冷やされて朝夕にどこかひんやりとした風が吹いて鳳凰樹の繊細な枝を揺らします。
しかし、夏至へ向かっていく太陽の高度はいや増し、昼にはほぼ頭の上、空の頂上で輝くので地面は再び熱せられ昼には強い上昇気流が発生。日が陰る夕刻、空気が冷え始めると、地上と上空の温度差に輝くような純白の積乱雲が湧き上がり、いつしか、あたりは灰色の薄やみの世界になっています。
すると遠雷と薄紫色の稲光と、マンゴーの葉を散らしながらざっと大風が吹き、突然大粒の雨があたりに打ちつけ、ノイズの嵐と水しぶきのドームに私たちは包まれています。
そんな風に、その年初めてのスコールはやってきて、雨季は鮮やかに始まります。

「フォン・トック・レーオ!」
(雨がきた!)
ガスールの検品の手を止める事なく、スタッフたちが口々に言います。

今日もスコールです。

一瞬、ぱっと検品の手元灯が消えます。
「オイ!」
「オォーイ!」
(タイ語でびっくりした時のかけ声は「えー!」でも「わおっ!」でもなく、「オイ!」なのです)
遠くで落ちた大きな雷で、瞬間的な停電が時折やってくるのです。
一瞬の停電ならば良いのですが、あまりに大きな落雷の時は長い停電になることもあります。
でも、そんな事はこの国では当たり前の事。停電で仕事が停滞する事は殆どありません。それぞれにバッテリーや自家発電機などの対策はあらかじめ取られているし、個人の生活の中でもこうしたことへの備えは充分にされているからです。
そしてこうした姿勢の背景には、田舎の暮らしのなかには、まだまだ電気が無い頃の知恵やライフスタイルが残っていて、そうした方法が会社などの中にも、小さな場面に生かされていることが感じられ、私はそうした事にタイという国の人たちの地に足のついた知恵や謙虚さ、眼差しの柔軟さや真っ直ぐさを感じずにはおれません。

私たちの会社でも、長めの停電が来れば「おやおや雨季だものね」と、パッケージ検品など電気が無くてもできる仕事に、スタッフたちはすっと切り替えてしまいます。あまりに素早くて、自然なので、誰が指示したのかもわからない程です。
(実際は、終業後の現場リーダーミーティングなどで、各業務の進捗状況の情報共有や、こんな場合は……。というケーススタディがかなり渋く行われている)

「あーあ、こっちのマンゴーは実が落ちちゃったわ、帰りに貰ってこうと思ったのに……。こっちの木のは良い匂いなのにね」
「もっと早く雨が降るようになっていればリンチーももっと大きくなったのに」
「雨、帰る頃には止むかな。市場で晩ご飯買いたいんだけど」
作業の手も、品質管理の目も抜け目無く働かせながら、なんだか午後になると食べ物の話が多くなるのは女性が殆どの職場だからでしょうか。

無事、雨が止んで終業前の掃除の時間。
庭師のバーンさんを囲んで、スタッフたちがなんだか羨ましそうに騒いでいます。
件のバーンさんは建物の傍、地面に円錐形に成形した青い網をピラミッドのように伏せて満面の笑み。

「なあに?」
「メンマンだよ!」
「いいなぁ~!」

網の中を覗き込むと、体調4センチはある大きな羽アリが地面からはい出してきています。身体はニスを塗ったように艶がある赤茶色。
メンマンというのは、北タイ方言の呼び名で、ヤマアカアリの仲間です。
「もう少し暗くなると、この上の方に一杯出てくるよ」
「うーわ~。」
興味津々だけれど、ちょっと顔が強張っている私に対し、バーンさんは、ニコニコを通り越して、ちょっとにやけた風にも見える顔で笑っています。
その背後で、網の外に這い出したメンマンを何匹か手のひらにこそっと、隠匿しているスタッフもいます(笑)。

北タイには虫を食べる文化があります。
野生の蜜蜂の子はもちろん、タガメ、竹の中に育つ虫、マンゴーアリの幼虫、チクンというコオロギに似た虫、大型のカイガラムシなどなど、それは様々な虫を食べ、料理法も多彩。
メンマンも実はその一つで、雨季になると、羽蟻たちが新しい家族を作るために古巣から出てくるのを捕まえるのですが、これが滅多に手に入らない珍味。それがなんと会社の敷地の中にあり、しかも同時に3つの巣から出てきたのですから、「庭の主」であるバーンさんは顔が弛んでしまうし、スタッフたちは羨ましくなってしまうのも致し方ないことでした。

「サワディー・カー(さようなら~)」
製造マネジャーのジャックさんが、わいわい言っている私たちの後ろを通り過ぎました。
「ジャックさん、メンマン、いらないの?」
「うーん……、ジャックは、マンゴーを採って行くから」
「工場の庭のは美味しい?」
「一番美味しいのは玄関の脇の木のね。とても匂いがいいの。でも、敷地の入り口のも小さいけれど酸味が効いていて美味しいの」

そんな話しをしていると、ジャックさんの向こうにアメリカネムノキの若木のまわりに生えたドクダミを摘んでいるクリーム製造チームのノイちゃん。
「これ、スープにいれます。良い匂いだから」
その向こうには、コンポストに生えた空芯菜や、カラスウリの若い蔓の束を持っている子が視界を横切って行きます。

こちらでは蟻採り、あちらには野草摘み、それからマンゴーもぎ。他にも小さな紫の木の実を狙っているスタッフもいます。
終業後の工場は、気づけば最早工場ではなく、あたかも畑か野原か、狩猟採集生活の場。
そうでした。今は「ルドゥ・ローン」と呼ばれる暑くて乾ききった季節(乾季)の後の、「ルドゥ・フォーン」(雨季)。恵みの季節です。
マンゴーやマンゴスチン、ドリアンを筆頭に数え切れないほど沢山の種類の果物、珍しい虫たち、川には魚、野原には香り高く美味しい草、森にはキノコ(ドライブをすると道沿いに、山で採った茸を売る人たちの露天が並ぶのもこの季節)、至る所に美味しいものが育つ豊かで甘美な季節。スタッフたちが庭ですっかりはしゃいでしまうのも当然でした。

実は、私にとってはこの「狩猟採集」の時間もとても貴重な時間です。
メンマン採りのように本当の北タイの人たちの暮らしぶりや自然観を学ぶ場であり、採った果物やハーブを包む蓮やバナナの葉の形に、例えば、こんな新しいパッケージがあったら……と、皆と話し合う場になっているからです。
少し緊張してミーティングで顔を突き合わせるより、むしろ全身を動かし、五感に心地よい感覚をたっぷり満たしながら、くすくす話し合った事の方が、もの作りのアイデアや方法の源泉になっていて、ミーティングはむしろそれを実現するための「段取りの打ち合わせ」になっているような気がします。
そんな事をスタッフたちも感じるのでしょうか、良い香りのハーブや細い草や竹を編んだカゴやおもちゃ、パンダヌスの葉で包んだ餅菓子、ココナッツの殻のお皿などを作ったり、市場で買って「これ、見た事ありますか?」と少し自慢そうに持ってきてくれ、この豊かな庭での会話が、仕事の時間をも豊かにするきっかけになっているのです。

私たちの作る化粧品と蟻も、あまりに唐突な組み合わせのようですが、けれどそこにも実は、蟻が出てくる場所や野草の美味しい部分を選びとる、北タイの自然と健やかに結びついたスタッフたちの手や目の繊細な感覚がフルに働いています。

もしできるなら、これからは、皆が持ってきてくれる美しい北タイのかたちや香りを素材に、新しいもの作りができないか? と、メンマンが地面から空に向かって飛び立とうとする様子や、ノイちゃんが大変な秘密を打ち明けるように、涼しい香りのハーブを私の鼻にそっと近づけてくれる様子を思いながら、考えるこの頃です。


ちなみにメンマンは、かりっと炒めてもち米(北タイの主食はインディカ米ではなく、もち米)と一緒にいただくのが美味しい食べ方です。(A.H.)

2013年6月6日木曜日

2時間の時差 subtle difference

東京とパリは8時間、東京とベルリンも8時間、東京とニューヨークは14時間。世界各国それぞれの都市ごとに距離に応じた時差があります。またこのくらいの時差があるとさすがにジェットラグも発生します。またアメリカ西海岸と東海岸では3時間の時差があります。これはひとつの国の中での時差であり、広大な国土の存在を感じます。
そしてタイと日本との時差は2時間です。日本の正午はタイの午前10時、タイは日本のマイナス2時間です。この微妙な時差は慣れるまでなかなか身に付きませんでした。

思えば就学前の幼稚園時代、時間が遅々として進まず、あまりにも遅いこの世界の進み方に泣きたくなった経験は誰しもあるでしょう。幼児が集中力を持続できる時間など実際のところ数分だと思います。
日本の小学校の授業時間単位は45分ですが、これは1年生も6年生も基本同じ、低学年児童にこの時間集中させるのはかなりの苦行だと思います。2時限目と3時限目の15分(もしくは20分)の中休みがいかに密度の濃い充実した時間だったかを思うと、生体の成長(老化)と時間の感覚には改めて驚きます。今やぼーっとしていれば2時間なぞすぐに経ってしまいます。特に大人の2時間はあっと言う間です。
そんな時間感覚としての2時間です。中途半端この上ない時間差です。夕方6時に電話を掛けようとするも、先方(日本)は夜の8時だと思い直して止めたことも度々あります。夕方と夜、朝と早朝といった微妙な時間の移り変わりの影響を直に受ける時間差です。


Pink Floyd - Time(http://youtu.be/MUt7qmSvxLI)

外国を意識しつつも、そこは同じアジア、こちらでは外国人(西洋人)のことをファランと言いますが、私たち日本人は外国人ではあってもファランではありません。アジアの国々のなかで植民地化されなかったのも日本とタイの二国だけでした。双方のロイヤルファミリーは親戚付き合いさながらに仲が良く、また双方の国民ともに自国のロイヤルファミリーを愛しています。
バンコクの商業エリアやターミナル駅の界隈は新宿や渋谷と一瞬見間違える景色ですが、それもいったん郊外へゆけば田園風景が広がります。そしてその景色ははかつての日本の景色、30~40年ほど前の日本の地方の景色です。

スタッフたちと話していて思うのは、彼ら彼女らははっきりと「明るい未来」を信じているということです。今日の生活は明日にはもっと良くなり、今のサラリーは来年にはもっと上がっている。今はバイクで通勤しているけれど、いつかは必ず車が買える。今の家は昔ながらの木の家、草葺きの家だけれど、しばらく頑張れば新建材をふんだんに使ったコンクリート作りの「新しい家」が建てられる。そこにあるのは昭和40年代の日本です。2時間の微妙な時差を超えてやってきたこの国には、40年におよぶディレイ装置をかました、かつての日本の姿がありました。
とはいえ当時はグローバル・キャピタリズムもグローバル・ウォーミングもその存在自体が意識もされていませんでした。原子力は輝かしい未来の象徴でした。世界はすでに40年を経過しています。スタッフたちもそれは確実に意識しています。(Jiro Ohashi)