2013年6月1日土曜日

この場所の香り scent of our days

 夜の雨のおかげでナルドのような、沁み入る暖かさと渋さをわきたたせる土の香り。キュウリや青いトマトのような青っぽさと甘さがある新鮮な草の香り。濃厚なワインのような香りは、熟して地面に落ちたリンチー(茘枝)やマンゴー、ラムヤイ、ジャックフルーツなどの果実が発酵し、欠伸のようにぼんやりと漂わせているもの。隣の草地からは、ひんやりした風に載ってほんの微かにやってくる獣や枯れ草や糞の香り。香りの主は会社の敷地と草地の境界近くまでやって来て草を食んでいるコブ牛たち。
 季節折々に変わりますが、今、朝の会社に着き、草葺き屋根のガレージから工房へ向かう時に、私たちを包んでいる香りです。

 芳香もあれば悪臭(?)もあり、どれもとても個性的でありながら、熱帯の雨季の澄んだ空気の中ではそれらは絶妙に溶けあってどこか懐かしく、同時に爽やかで生き生きとした香りになっているのは、タイという駘蕩として鷹揚、優雅な国らしく思われ、同時にそれがしっかり感じられるのはチェンマイの郊外という、まだ自然が豊かな場所に私たちの工房があるからでしょう。

 暑季である4月から雨季の始まりの6月上旬にかけて、私たちが楽しみにしているもう一つの香りがあります。朝、工房のドアを開けると室内に漂っているジャスミンの香りです。
 室内なのに何故薫るかといえば、スタッフのカーンさんが朝早く、敷地内のジャスミン畑で花を摘み、小さなカゴに入れて私たちの机の上に置いてくれるからです。

 ジャスミンはとても香りが強く、その芳香成分は拡散性が高いため、少しの花でも室内いっぱいに淡く香りが広がります。おかげでドアを開けた瞬間、中国茶をとても美味しく煎れられた時のような、甘くも爽やかな香りがあたりに漂い、工房の中の気温が少し下がったようにも思える涼感をも感じさせます。
 おかげで慌ただしかった通勤中の気分がゆったりと落ち着くので「今日はあるかな?」と、ドアを開けるのがとても楽しみなのです。

 また午後、皆の作業もいよいよピークに差し掛かる頃になると、陽射しも少し西に傾いてあたりに乱反射し、室内にも忍び込んで意地悪に肌を刺し、さしものスタッフたちも少し気持が乱れそうな時分。
 またどこかからふっとジャスミンが香ります。
 正体はスタッフたち自身。それぞれが自分の家の庭から持参していたもの、庭から摘んで来たものなど、様々なジャスミンが帽子で覆ったひっつめ髪に飾られて、それが帽子のメッシュから透けて見え、花は布越しに密やかに漂って、それぞれにエールを送ってくれているのです。

 そして夕刻。
 仕事が終わり、明日のためのリーダーミーティングも終えてそれぞれが帰り支度をする頃、西にある山ドイ・ステープから降りてきたスコールが、水田やラムヤイ(龍眼)の果樹園を潤しながら、私たちの工房のあたりを通り抜け、熱い地面を冷まして行きます。
 スコールのおかげで少しずつ冷えて来たとはいえ、暑季のカンカン照りで溜まった地面の熱は高くて、スコールから1時間もすると、再びあたりは暑さに包まれます。その中をようよう家へと帰り、室内はさぞかし熱が籠っているだろうと、のろのろドアを開けた瞬間。私を迎えてくれるのは、やはり涼しいジャスミンの香り。帰り際にハウスキーパーのヌイさんが回していってくれた扇風機の微風に乗って迎えてくれます。
 部屋の奥へと目を向ければ、テーブルの上には彼女が朝の出掛けに庭で摘んだ花で作ってくれた小さなブーケが。穏やかで慎ましい彼女そのままの風情でそっと飾られているのが目に入ります。 
 欲張りな私は花を鼻と目で楽しむのではまだ物足りなくて、帰ってきて一息つくためのお茶にヌイさんが丹精したジャスミンを一輪入れ「これでお茶もひと味違う」といささか無粋にほくそ笑んでしまいます。

 こんな風にジャスミンは、ここではとても身近な存在で、市場ではレイ(タイでは「マライ」と言います)が売られ、交差点ではそれを仕入れて、赤信号で停車中の車に売る人たちも居て、ドライバーは車内の小さなお守りと一緒にバックミラーにぶら下げて飾り、大抵の家にある精霊の家や小さな仏像にもこれらは捧げられます。
 そうでなくてもエアコンや扇風機の前に置いて、風にも香り付けをし、熱帯に居ながら、家は簡素で鄙びたものであっても、どこかゆったりと清雅な雰囲気を漂わせるのが、チェンマイの郊外に暮らす人(私はこっそり「本物のチェンマイ人」と呼んでいます)たち。
 チェンマイはかつてあったランナー王国の都だったせいでしょうか、ここの人たちはこうした、自然の花や草木を五感で楽しめるよう、ささやかかつ優雅にしつらえるのがとても得意な気がしますし、こうした細やかな感覚がもの作りのアイデアや品質を保つ目配りにも生きているのが感じられます。

 写真は、4月にあるタイの正式なお正月に、年長者等に敬意を示し、互いの長寿や健康を祈りあう「ダムフア」の儀式に使う神聖な水「ナム・ソムポーイ」。本来は髪を清める意味を持ち、昔、シャンプー代わりに用いられたネムカズラの実、殺菌効果のある鬱金などを入れる他、香りづけに芳香のある花を浮かべたり、手軽なところでは既に香り付けされた市販の水を使うのですが、私達の会社では、もちろん敷地内の新鮮なジャスミンの花。新鮮な花そのものの香りがする「ナム・ソムポーイ」になりました。

 お祈りをする際、相手の手や首に欠けるマライも同じく敷地内のジャスミンやカイガンタバコの花を使って作りました。(A.H.)