2014年4月11日金曜日

平地のタイ人と山の人 その1 plains and mountains people 01

タイの北部から北西部にかけては、今もなお独自の文化を持つ多くの山岳民族が暮らしています。チェンマイでも少し郊外へ行けば彼らの暮らす村があちこちにありますし、旧市街の中心地、観光客で賑わうワローロット市場の一角にも、山岳民族の人たちが手織り布やアクセサリー、色鮮やかな民族衣装などを売る店が軒を連ねています。一見すると独自の伝統的な習慣や文化を守って生活しているようにも見えますが、そこはそこ、彼らはなにも隔絶した生活をしているわけでもありません。

彼らの生活する家の軒先には巨大なパラボラアンテナが立ち、テレビの衛星放送を受信していますし、子供たちの中には庭先のベンチに座り、スマートフォンでゲームをしている子もいました。街中までは荷物を持ってソンテウに乗り行商に行く人もいますが、旧市街の市場にはバイクの横にリヤカーのような荷台を付けたサイドカーで通う人もいます。中にはピックアップトラックで移動する人もいます。色鮮やかな民族衣装は街中で行商をする際の仕事着、制服として割り切って着用する人もいるでしょう。

もちろん民族衣装を日常的に身につけ、伝統的な高床式の家に住み、仏教ではなく精霊信仰やキリスト教を信仰し、昔ながらの文化と習慣のなかで生活する人々もいます。年配の人々ならば尚更です。とはいえ若い人たちはどうでしょう? これだけメディアが発達した現在、昔ながらの独自の生活習慣を守って生きて行くほうがエネルギーがいるようにも思います。

海外からこの地に観光に来る人々の中には、すべてスケジュールがお膳立てされたパッケージツアーを嫌い、自分自身で興味のある場所と内容を組み合わせて、独自に日程を組む人たちも多くいます。
「タイに旅行した」と言ってバンコクのサイアムスクエアやシーロム通りでショッピングしたとか、パタヤやブーケットのビーチでのんびりしたとか、暁の寺やワットプラケーオの王宮を見て回った、と言っても(それなりの満足感はもちろん得られますが)、それでも「何か物足りない」と感じる人もいるでしょう。そうした人々にとっても、北タイの山岳民族の村を訪ねるという体験はとても魅力的だと思います。

とはいえ、人気のメニューである「山岳民族訪問ツアー」も、当然それは数ある観光メニューの中のひとつです。それでも自らの興味と行動力によって独自性を保ちたいと更に「敢えて観光地化されていない(ツアーコースに入っていない)山岳民族の村を訪ねたい」と希望する人もいます。しかしそれは、何か明確な目的を持った学術調査や、織物、木工、金属加工など伝統的な手工芸に対するビジネス的アプローチ(相手にも益のある交易提案)などが無いならば、おそらく訪ねてこられる側からしたら迷惑であるとも思います。

観光客の入り込まない山岳地帯に分け入って現地の人々の生の生活に触れる、といえば聞こえは良いですが、彼らの生活や文化、そして存在そのものは当然見せ物ではありませんし、見学対象でもありません。言葉も英語はまず通じませんしタイ語も通じません。民族ごとにそれぞれ独自の言語があります。コミュニケーションを図るのも大変です。その村が観光客を受け入れていない(観光地化されていない)のならば、それなりの理由があってのこと。

タイの北部、北西部の山岳民族は、ラワ族のように現在の国としてのタイが成立する以前からそこに住む先住民族もいますが、しかしその多くは19世紀〜20世紀にかけて、中国やミャンマー、ラオスなどから、さまざまな理由で移住して来た人々です。迫害から逃れての政治亡命もあれば経済的理由でやって来た人々もいます。
かつてはタイ政府の治安の及ばない国境周辺の山岳地帯に住み、稲作を中心とする“平地のタイ人”たちとは互いに棲み分け、直接交わることもなければ軋轢もほとんど無かったといいます。
焼畑農耕と畜産を主な生業とし、彼らの文化として機織りや手工芸で自身の身の回りの品を誂え、自給自足で生活していたといいます。

しかし今は21世紀、辺境の山岳民族をそのまま放ってはおきません。タイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川を境に接する山岳地帯は“ゴールデン・トライアングル”と呼ばれ、かつては麻薬原料としてのケシの栽培で有名な地域でした。現在では取締りの強化や経済成長でタイやラオスではケシの栽培はほぼ消滅、もしくは減少傾向にあるともいわれますが、逆にミャンマーではいくつかの軍閥を中心に今も麻薬・覚せい剤の製造が行われるなど、二極化の傾向にあるといいます。
とはいえ、ケシは19世紀に中国など列強国がこの地に持ち込んだもので、彼ら山岳民族が昔から栽培していたものではありません。

タイに関していえば、山岳民族の定住化と麻薬撲滅、他国から逃れて来た国籍のない山岳民に対してIDカードを発給するなど、あまねく国境周辺までのタイ化を進めてきました。
貧しい山岳民にとってケシの栽培は、麻薬という反社会的存在というよりは、むしろ貴重な現金収入であったでしょうし、焼畑による農耕は土地のローテーション・サイクルによる集落の移動を促していたはずです。20世紀後半の“世界の価値観”は、こうした彼らの生活スタイルに急激な変化を強いることにもなったでしょう。

山と平地の価値観、都市と地方の価値観。ミャンマーとタイ、タイと世界、富める人と貧しい人、仕組みの異なる国と国。そんな多様な価値観と民族とその生活が渾然一体となったここ北タイで、日々私たちは製品を作っています。(J.O.)