2014年12月1日月曜日

土の中から(その1) from underground 01

わけあって陶器に関する勉強をしています。最初は何気なく観光客向けの土産物としてのセラドン焼きから入ったのですが、セラドンにも様々な窯があり、いくつかの製造メーカーがあり、その作りにもかなりの違いがあるようでした。かつての高級陶器セラドンも肉厚で鈍重なものが増え、デザインも安易で垢抜けず、その特徴的な翡翠を思わせる美しく淡いグリーンも 、いつの間にか品のない青や赤みの掛かった不要なバリエーションが増えていました。
そうして失望していた矢先、食器棚の奥から10年ほど前に買ったセラドンの椀を発見します。その椀はシンプルな美しいフォルムで、装飾は一切なく、なにより薄く繊細な作りは指や掌、唇にあたった感触も格別です。今の鈍重な土産物セラドンとは全くの別物でした。あまりの作りの差に愕然としつつ、少しずつ少しずつ厚さや色味が変化しても意外と気がつかず、名称としては同じ製品でありながら、それでもいつのまにか別物になってしまうデザインの劣化を目の当たりにしたものでした。

この10年前の器の高台に記されたメーカー名を頼りに、その会社の所在を調べ工房を訪れました(それは意外にも私たちの会社のすぐ近くにありました)。併設されたショップでこのセラドンメーカーの製品を改めて見てみると、それは家の食器棚に仕舞われていたのと同じもの、いわゆるかつてのセラドンでした。肉厚で鈍重な土産物とは違った、姿形も美しい、エメラルドグリーンの釉薬のガラス質の表面に、細かい貫入が入った、チェンマイ陶器の名声を高めたかつての高級陶器セラドンです。頭では理解していても、作り手により窯により、こうまで違う陶器の実際を図らずも目の当たりにし、これはチェンマイ周辺の北タイの陶器に改めて興味が向かうきっかけとなりました。

チェンマイは優れた伝統工芸の街として知られています。織物、銀細工、花細工。竹細工に家具、木工などなど。あくまで陶器もその中のひとつでもあるのですが、たまたまきっかけとして、この地のものづくりの本質に触れる入口として、陶器の存在があったということです。
その後、こちらならではの器に注意して目を向けるようになり、屋台や地元の食堂などで使われるチキンボウル(ランパーンの鶏碗 http://fromchiangmai.blogspot.com/2013/07/1chicken-bowl-01.html)に惹かれ、その歴史を調べるなどしていると、当然その先は北タイの陶器の歴史に突き当たります。大量のレコード、CD、本、雑誌。電子楽器にラジカセ、オーディオ、各種ガジェットもろもろのコレクションに溺れて来た身としては、触れてはならない大変危険な領域です。

陶器の歴史などといえば、書籍やネットの情報を頼りに調べたところでたかが知れています。当然現物に学ばねばならず、それに触れる必要があります。しかしこれらは博物館や美術館のガラスケースの中に収められた貴重な文化財か、もしくは希少なアンティークです。そうでなければ各種の展覧会図録や写真集で間接的に確認するよりありません。
古美術における陶器といえば、中国陶磁をその頂点に、朝鮮半島、そして日本の古陶磁が主流です。そんななかで東南アジアの古陶磁はといえば、中国の影響を色濃く受けたベトナム(安南)、そしてチェンマイ周辺の北タイの古陶磁が際立っています。12世紀のクメールから13〜15世紀のスコタイ王朝をその絶頂期に、北タイ周辺の固有の美意識と大胆なデザイン、そして繊細で細密な手技、それに当時世界の最先端であった中国から伝わった窯と生産技術が合わさって、ちょっと他には類を見ないオリジナリティ溢れるタイの陶器が花開きました。

日本には室町〜戦国期より伝わり、時の権力者や茶人に愛されたスワンカローク焼(いわゆる宗胡禄/スンコロク)などスコタイの各窯、カロン、サンカンペーン、パーン、ハリプンチャイ、そして現カンボジアのクメール等々、それぞれの窯が強力な個性で特色豊かな器を大量に生み出しました。当時の陶器は単に食器という枠を超え、その国の技術力、国力を示すものでもありました。穀物など農産物(および肉や魚といった食料品)と、衣服としての布(織物)は財力を示したでしょうが、それに加えて陶器は更に、権力者の使う贅を尽くした日用品、神事に用いられる神聖な道具、そして宝物、副葬品といった具合に特別の意味合いも強かったでしょう。
実際スコタイはタイ族による初の統一王朝でしたし、13世紀後半の三代目の王、ラームカムヘーン王の時代には国力も隆盛を極め、文化芸術も絶頂であったといいます。王は初のタイ文字を定め、中国との交易を行い、この時代に中国の陶工たちが招聘されたと伝わります(当時の最先端技術です)。タイ初の産業として陶器の輸出が行われたのもこの時期です。こうした器(スワンカローク焼き)はチャオプラヤー河を下りシャム湾に出て貿易船に積まれ、アジア各地を廻り遠く日本までやって来て宗胡禄となり、戦国の世の茶人たちに愛でられた、ということです。いろいろ繋がってます。

タイの古陶器の面白さのひとつは「評価の固まらない」柔らかさであると思います。日本の古美術骨董の世界では年代や場所(窯)、品質や状態はもちろんですが、その品の伝来、所持、書付や時代箱の有無など、明確な鑑定基準なるものがあります。ところがタイの陶器の場合はそうした面倒くさいもの(特に否定はしませんが)はほとんど存在しません。一般的なタイ人(特に北タイの庶民)の感覚からすると古いものはピー(精霊)が宿っているから好まない、もしくはそれは畏れるものであって、きちんと接しなければならない。少なくとも蒐集して愛でるものではない。という感覚があるように思います。実際、タイ人でアンティークの陶器を好んで蒐集する人は非常に少ないですし(ごく一部の好事家か研究者)、いてもそれは中華系の富裕層かファラン(欧米系の外国人)、そして日本人です。
日本の骨董(アンティーク)の感覚からすると、江戸や明治のものは間違いなく立派な骨董ですし、下手をすれば大正や昭和初期のものも骨董品として扱われる場合もあるでしょう。しかしこちらでは、100年やそこらでは単なる古道具、全くアンティークの範疇に入れてもらえません。アンティークと称するならば「やはり500年くらいは経っていてもらわないとね」という具合に、そもそもタイムスケールがまるで違うのです。

で、どういうことになるかといえば、古美術店の店頭には12世紀から15〜6世紀のものがごろごろ並ぶわけです。「そこは骨董天国か!」と勇む方もあるかもしれませんが、古美術、アンティークに対する感覚が日本などとは全く違うので、そうしたお店自体が極めて少ないのも事実です。とはいえ、こちらで古美術、古陶器といえばこの時代のものです。日本でいう鎌倉、室町、安土桃山の時代のものが主流です。500年も600年も前のものというと一瞬たじろいでしまいますが、でもそういうことです。
北タイ周辺の古陶器は王朝の興亡、戦乱などにより、18世紀にはほぼすべての窯がいったん絶えていますから、おのずと18世紀以前のもの、江戸中期以前のものになるわけです。
そんな古いものがいったい何処から湧いて出るのかといえば・・・。それは土の中からやって来ます。(Jiro Ohashi)