2014年5月4日日曜日

会社とコスト towards a sustainable company

私たちの会社は、スタッフの福利厚生面の整備にはかなり力を注いでいます。退職金や有給休暇制度はもちろん、スタッフのほとんどが女性ということもあり、産休や育休に関しても出来る限りのサポート体制を敷いています。
こちらの人々は家族としての繋がりがとても強く、子供は家族みんなで育てます。育児休暇は赤ちゃんを産んだお母さんだけでなく、自分の娘が子供を産んだ際にも(新米おばあちゃん?にも)育児休暇が取れるよう、その適用範囲を拡げました。
就業上のさまざまな規定を策定する際にも、タイ人マネージャーに意見を聞きました。
「こういう決まりにしたら皆はどう思うかな?」
「私はもちろん意味はわかります。でも皆はどうでしょう?」
「手当は厚くしたいと思います。種類はどうでしょう? 多いと感じる?」
「手当はもちろん嬉しいけれど、貰う額は同じでもお給料(基本給?)が多いほうが皆喜びます」
「社員のボーナス算出方法はこのように考えています」
「よい算出方法ですが、パートさんも同じ方法で計算して貰えたら嬉しいです」

こちらは日本とは違った独特の労働観、生活観、家族観があります。単に日本の仕組みをそのまま移植したのでは、まずその実効性は望めません。タイ人スタッフたちにも繰り返しヒアリングを行い、実地に話し合いを重ねましたました。スタッフたちもただ自分たちの希望、要求を言うだけではなく、あくまで持続可能な会社をイメージしているようです。これはとても大切なポイントです。
「給料やボーナスが沢山貰えるのはもちろん嬉しいけれど、でも会社が無くなってしまったら元も子もありません」とはっきり言います。

タイで良く言われるいい方として、取りあえずここで(日本人の会社で)働いてスキルを身に付け、ある程度経ったらもっと給料の良い(欧米系の)会社へ移り、そこでお金を稼いだらしばらくして自分で会社(商売)をやる。といった技術者やホワイトカラーの転職パターンがあります。こうしたジョブホップの対象と捉えられるうちは、会社として良い結果は全く得られないでしょう。

タイでの一般的な給与形態は、都市部の外資や大企業は別として、考え方の基本は日給だと思います(これを2週間に一回、1ヵ月に一回という具合にまとめて受け取ります)。月給や時給といった考え方はあまり馴染まないようです。これはチェンマイという地方都市だからかもしれませんが、正社員やパートタイムといった就業形態にもそれほど強い拘りはないように思います。
週末は農業をする、朝は家族が市場に出す屋台を手伝うなど、あくまで会社が代替不能で唯一の存在ではないということです。会社を生計の柱として大切にしつつも、もっと重層的で多様な労働観と生活感があります。もちろん社員はそれなりに高いステイタスではあるようですが、かといって「なにがなんでも正社員!」といった生活設計上の切迫感はありません。強いて言えば私たちの会社の場合、パートタイムは一般従業員で、社員は各部門のリーダーさん、といった感じでしょうか。
正社員だの非正規だの、パートだのアルバイトだのと拘らない社会は、気持ちの上でも本当に楽だと思います。もちろんそうした就業形態の差異による不利益を蒙らない社会であることが前提です。私たちの会社では、福利厚生制度は社員だけでなく、パートタイム従業員にも同様の制度を適用しています。

一昨年のタイ国政府による最低賃金の引き上げ、所謂「300バーツ問題」も、これは「日給をすべて300バーツ以上に引き上げなさい」というものでしたし、この辺もまた日給単位の労働観、パートタイムも念頭においた施策とも感じます。
とはいえ実際のところ、バンコクも地方都市も一律に全ての産業で日給300バーツが本当に実現できているかといえば、それは大いに疑問です。いかに法人税の減税とセットだとはいえ、地元の中小企業や個人商店などで、景気や市場に特に大きな変化がないなか、人件費のみ別枠で上げるというのは些か乱暴です。また地元企業のなかには実際には支払えない会社も数多くあります。これも外資や大企業を念頭においた建前上の施策なのでは? と勘ぐりたくもなりますが、実際のところはわかりません。
しかしそこは柔軟で緩やかな国、地方では建前は建前として従業員と雇用主で話し合い、300バーツ以下の現実的な(仕事に見合った)日給で雇用関係を続けるところもあります(違法ですが)。
とはいえ私たちは外資であり政府から認定を受けたBOI企業です。社員はもちろんパートタイムから学生アルバイトまで、当然のこと全従業員の日給は300バーツ以上に引き上げています。

正直いってここチェンマイで、私たちの会社と同様の給与制度、福利厚生制度を設けている会社は、おそらくあまりないとも思います。理由は簡単です。コストが掛かるから。
ではなぜ私たちはこうしたコストを掛け、福利厚生に力を入れ、社員とパートタイムの待遇面の区別も撤廃するのか?(実際、法律上は区別してはいけません) 当然会社は慈善事業団体ではないので、損得勘定もありますし社会的道義的「正義」のためだけに、スタッフの待遇を厚くするわけではありません。だいいちそうした一時の満足感や志のみでは持続できません。
理由は簡単です。コストに見合った十分なリターンが得られるからです。

私たちの作るコールドプロセス製法の石鹸や、オイルとミツロウから作るクリーム、モロッコのクレイ「ガスール」の製品化などは、すべてスタッフたちの手で丁寧にハンドメイドされています。陶器の器やヘンプ布を使ったパッケージなどもスタッフたちの手で行います。工場の製造ラインのスイッチをカチャンと入れれば、機械が作動して勝手に出来上がる製品たちではありません。

私たちの製品は、人の手や目や指先の感覚を動員しなければ作れない丁寧な仕事の産物です。自然素材を相手にした仕事なので、その都度機械では定量化できない熟練スタッフの加減や目算も必要です。そのためには衛生的で近代的な設備と、スタッフたちの職人的な技能と経験は欠かせません。熟練スタッフは会社の財産ですので最大限の敬意とともに大切に扱うのは当然のことです。求人に際しても、まずは質の高い人材を確保し、相応の研修期間を要して育てるのも当然です。
働く人々にはそれぞれの労働観があり、精神的にも豊かな生活があり、家族との大切な時間があります。

その為には会社として相応のコストが掛かります。多くの日本企業は東南アジアなど人件費の安い国に生産拠点を移してきました。当初は私たちにも当然そうした経緯はありました。とはいえ、安い人件費のみでここに会社を構えたわけでは全くありません。一口に「人件費」といっても、その計上されるコストには質が反映されません。機械にも代替可能な単純作業を、安価な人件費と少ない設備投資にのみ魅力を感じて展開したとすれば、それは製品の品質に素直に現れます。品質の低下は製品の信頼を損ね、売上げを毀損し、不良品率を高め、その結果としてのクレームの修復に多大なコストを要します。

仮に人件費を圧縮して短期の利益のみを求めれば、一時的には芳しい成果(帳簿上の数字)を上げるでしょうが、当然これは持続できません。
ごく近い将来、明らかに顕現する問題の先送りであり、また現時点でコストが顕在化されていないからといって、その対応コストを予め負担しないのは会社の無策でしょう。無自覚に状況に流されるがままの現状維持は緩やかな死ですが、負担すべきコストの先延ばしは更にそれを加速する積極的な行為です。

こんな話があります。
サリュー・フォスは1970年代後半、立ち上げ当初のベガーズ・バンケットでラーカーズのデビューシングル「Shadow/Love Story」のレコーディングに関わりました(ほとんど売れませんでした)。その後は4ADへ移り、そして後半はチェリー・レッドと当時の勢いのあるレーベルを渡り歩いたプロデューサーです。当初はキーボーディストとしてアーティスト活動もしていたようですが自身名義の作品は一枚もリリースされず、次第にプロデューサーとして手腕を発揮したといわれます。
とはいえ音楽業界でいうプロデューサーの役割は独特です。彼の場合はクリエイティブに関わる全権を握るプロデューサー(当時のコニー・プランクやブライアン・イーノのような)ではなく、あくまで資金調達(といえば聞こえは良いですが、当時は勃興期のインディーレーベルです。帳簿会計すべて遣り繰りしなければならない番頭的役割でだったと思われます)に特化した文字通りの裏方プロデューサーだったといいます。

サリューが音楽業界の表舞台にほとんど名を留めることなく(華々しい名門レーベルを渡り歩いたにも関わらずです)、関わった多くのレコードにもクレジットすらされていないのには理由があります。自身の美意識として、あくまでアーティストとしての作品発表に拘り、最後までそれを目指したから。そのために裏方仕事での自分のクレジットを執拗に嫌ったから。というのが表向きです。しかし、レーベル運営に際して裏取引、帳簿外取引を主な生業としたからだ、という人もいます。例えば同じ就職先でも大手銀行であれば親や親戚にも自ら進んで報告しますが、街金、サラ金の類いでは漠然と「金融関係」としてお茶を濁すでしょう。どちらが本当かはわかりません。

彼が活躍した時代はMIDI規格が登場し(1984年)、安価なサンプラーが登場し(エンソニック社のミラージュ、AKAIのS612の登場は共に1985年)、音楽制作を巡る環境が大きく変わるその前夜でもありました。
「シンセサイザーは日常のあらゆるサウンドを合成できる!」
「サンプラーを手にした今、私たちは自分のオーケストラを手中にしたのだ!」
こうした当時の電子楽器に対する素朴な高揚感は、おもには19世紀のフランスの数学者フーリエの唱えた「あらゆるグラフは正弦波グラフの集合体で表現できる」とした「フーリエ変換」の定理に後押しされたものでした。主にはアナログシンセサイザーの時代です。とはいえこれを音(音波)に適用した時点で、理想(定理)と現実(電子楽器)の乖離がおきました。理論上は可能でも、音色を特徴づけるあらゆる音(倍音)をひとつひとつ設定してゆくのはあまりにも複雑で、全く現実的でなかったのです。

サリューは祖父の代に渡って来たフランス系イギリス人でした。19世紀のフランスの数学者が唱えた定理と、自分が生業とする新しい産業、音楽制作の現場とを重ね合わせ、全能感に浸っていたのは想像できます。
音楽制作環境の変化は、制作に掛かる予算の変化でもありました。いかに安価になったとはいえ、最新の音響機材、レコーディング機器をいち早く導入するためには相応の資金が必要です。レコーディングの現場には直接関与出来なかったとはいえ、資金面、経理会計を任された彼は、新進のガレージメーカーに次々に機材を発注し、自分のレーベルの(まだレコーディングすらされていないアーティストの)レコードを営業してまわり、NMEなど音楽誌の記者たちと親しくし、ライブハウスを回って新人スカウトの真似事もしていたといいます。
大変人当たりの良かった彼は、それら全てに必要以上の発注と実体の無い営業を繰り返したといいます。当然方々でトラブルを起こしますが、所属レーベルを頻繁に移籍したのもそうした理由があったのかもしれません。サリューは営業に際して自身はほとんどリスクを負うことなく、壮大な夢を熱く語り、多方面に出資を促してはそのコストを悉く回収できませんでした(多大な損失を与えたということです)。各方面への大迷惑と、「しょうがねえなあ」という人々の苦笑以外は、音楽業界にほとんど名を残すことなく、消えて行きました。とはいえ、世界中の音楽業界には彼のような人物は山ほどいたはずです。ビジネスには分をわきまえた投資と受注と発注が大切です。キャパシティを越えてはいけません。

キャパシティを上回る受注があった際の対応には以下が考えられます。まずは既存の製造ラインを上限フルに稼働させる。残業と休日出勤で更にキャパの上限を押し上げる。臨時に人を雇用してラインを拡幅する。これらが対応の定石でしょう。頂いた受注に応えるのが基本です。なぜなら製造数に見合った利益が望めるから。しかしそこには顕在化しない多大なコストが掛かります。
帳簿に載せられない取引はあってはならないものですが、帳簿に現れないコストは存在します。そうした見えないコストこそ会社には大切です。(Jiro Ohashi)